
昭和20年8月15日。約300万人に及ぶ尊い犠牲を払った大東亜戦争終結の日、わが日本民族は初めての敗戦を味わった。焦土と化した国土。疲弊と飢え、筆舌に尽くし難い虚脱感に襲われずに済んだ国民は、だれ一人としていなかった。
戦時中はもちろん命懸けの日々であったが、戦後を生き抜くことも国民にとっては、辛(つら)く苦しい闘いにほかならなかった。そして、「敗戦」という厳然たる事実が最も大きくその存在をおびやかしたのが、天皇と天皇制であった。戦国の時代から、戦に敗北した城主は殺されるか自決、服従、または逃亡という形において、例外なくその地位と居城を失った。また世界史は、敗者がその地位を追われる宿命にあることを雄弁に物語っている。あのフォークランド紛争でイギリスに敗北を喫したアルゼンチンの大統領がその戦争責任を問われ、自国で裁判を受けたのは記憶に新しい。

戦時中まで、大元帥の立場にあった天皇陛下が、先の大戦において日本の最高責任者であったことは、紛れもない事実であり、したがって陛下の戦争責任を求めて、糾弾する一部の動きや、「天皇制廃止」を叫ぶ声が戦後、国の内外で吹き荒れた。当時、天皇に対するアメリカの世論はヒトラーやムッソリーニと同様に戦争責任がある、としたのが実に70%を超え、アメリカ国民の3分の1が天皇処刑に賛成であった。連合国側ではソ連、豪州それに中国の蒋介石政権も天皇制廃止を強く主張したのである。二千数百年の歴史を持つ天皇制は、このとき、最も深刻な危機に直面した。
だが、もちろん陛下ご自身が、その立場を守られようとされたということは一切ない。陛下は、ただひたすら国民の平安を願われていた。そのご彰念(しんねん)は、次の御製からも十二分に読みとれる。
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民を思ひて
爆撃にたふれゆく民の上を思ひいくさとめけり身はいかならむとも
国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり
幸いにも、「天皇制がもし保てなければ、日本は最後の一人が玉砕するまで戦うだろう」と感知していたアメリカの知日派の活躍と、天皇陛下の身を捨ててかかられた御聖断、そして、マッカーサー占領軍総司令官あてに出された千通にものぼる日本人の直訴状などが、大きな力となって天皇陛下は処刑、戦犯とはならず、その地位は不動だった。
天皇、そして天皇制は存続されたのである。
翌年、〝人間宣言〟をなされた天皇陛下は日本全国のご視察に回られた。「一人でも多くの国民に会って、慰めでも多くの国民に会って、慰め激励し、戦後日本の再建に努力してもらおう」とのご自身のお考えから、敢然として民衆のなかに、飛び込んでいかれた。いわゆる「ご巡幸」である。
ご巡幸の始まる直前、当時の行幸主務官加藤進氏は、天皇陛下から次のように言われている。
「今度の戦争で、国の領土を失い、国民のなかに多数の死傷者を出し、たいへんな災厄を受けた。この際、わたしとしてはどうすればいいのかと考えたが、結局、広く地方を歩いて遺家族や引き揚げ者を慰め、励まし、元の姿に返すことが自分の任務であると思う。わたしの健康とかなんとかは全然考えなくてもいい、その志を達するよう全力を挙げてこれを行ってほしい」
そうした思いを強く抱かれての、ご巡幸だった。昭和21年2月19日の神奈川県下の昭和電工を振り出しに、29年の北海道ご視察までの、それは〝長い旅〟であった。ご視察日数百六十五日、全コースは3万3千キロに及び、陛下が直接お言葉をかけられた人数は、2万人にものぼると宮内庁では回顧している。陛下をお迎えした国民の感激は大変なものだった。当時、各県がまとめた行幸記念誌から、二、三の感想をひろうと――
「陛下は車内から帽子をおふりになり、にこにことめがねの中からほほえみになりました。私はその時、町にも村にも平和な気分があふれて美しいよい国だと、なんともいいようのない感激の一瞬でした」(兵庫県片岡璋美、小6年)
「今後開拓者として、私を捨て一致協力国家再建のためにてい身いたしますことをお誓い申し上げる次第であります」(熊本県末原保之、42歳)
「平和な日本そして世界の人の為になる日本、その日本を一日も早く築きあげて陛下の大御心に報いなければならないと自分の心に堅く堅く誓いました」(茨城県小林芳枝、小6年)
当時の新聞は、「寝たきりの老婆が立ちあがった」「窃盗犯が陛下の姿に、自らを悔いて自首した」というものから、巡幸阻止をもくろんでいた共産党員が「赤旗」をほうって、代わりに「日の丸」を振る光景が各地で見られたなど、国民の感激の深さを伝えている。
そして、その結果、和歌山のある工場ではそれまでの製品の合格率が47%から93%にまではねあがった。名古屋鉄道局の浜松工機部では工場の能率や従業員の出勤率が急上昇した。
日本でまだ腕時計ができなかったころ、服部金太郎氏は、陛下の「どうして日本ではできないのか」の一言に触発され、国際的トップレベルのセイコー時計を作るに至る。ご巡幸は全国に無名ながら服部金太郎のような活躍をする人物を、期せずしてじつに多く輩出したのである。
あれから40年。かの大東亜戦争の戦勝国以上に、敗戦国日本が発展、成長したという現実を、だれも否定しない。この繁栄に、日本人の精神的バックボーンともいうべき「天皇」の存在があったこともまた、だれもが認めるところであろう。
われわれ取材班は戦後日本の復興に大きく貢献した天皇陛下ご巡幸にスポットをあて、21世紀に向けて生かす精神の遺産を探し求めて、全国に旅立った――。
※「昭和天皇巡幸」は、世界日報で連載(昭和60年1月2日~2月9日、4月1日~4月30日)され、世界日報で単行本化し、加筆修正して創芸社から出版されたものを転載しました。







