トップ社会戦後80年 「慰霊ではなく顕彰を」「義烈空挺隊」顕彰碑を建立「空の神兵」顕彰会代表理事 奥本 康大氏 

戦後80年 「慰霊ではなく顕彰を」「義烈空挺隊」顕彰碑を建立「空の神兵」顕彰会代表理事 奥本 康大氏 

「義烈空挺隊」顕彰碑の前に立つ奥本康大氏=16日、熊本県熊本市の健軍神社

 おくもと・こうだい 1950年、大阪市生まれ。75年、出光興産株式会社入社。現在は保護司、家事調停委員として社会貢献活動に従事。史実を世界に発信する会委員、二宮報徳会理事、郷友会千葉県支部理事、新しい歴史教科書をつくる会千葉支部幹事。著書に『なぜ大東亜戦争は起きたのか? 空の神兵と呼ばれた男たち』(共著者・高山正之、ハート出版)、『正伝 出光佐三―日本を愛した経営者の神髄』(展転社)など。

戦後80年の節目に、熊本県で1400年を超える歴史を持つ「健軍神社」の境内に「義烈空挺(くうてい)隊」顕彰碑が建てられた。顕彰碑建立を主導した一般社団法人「空の神兵」慰霊顕彰碑護持会代表理事の奥本康大氏(74)は、「国を守るために戦った英霊を、慰霊ではなく顕彰することが大切だ」と訴える。(竹澤安李紗、写真も)

JR熊本駅から市電で約50分、健軍神社の荘厳な楼門をくぐり、緑に包まれた閑静な参道を進むと、右の手水舎の奥に、義烈空挺隊顕彰碑が立つ。5月17日の除幕式以降、新たな参拝客が増えたという。顕彰碑には同隊の写真とともに奥山道郎隊長の訓辞が刻まれている。

〈出撃にあたり隊長として最期の訓辞を与える。待望の出撃の日は、遂に到来をした。平生、訓練の成果を発揮をして、敵アメリカの心胆を震駭(しんがい)し、全軍決勝の先駆けとなるは、まさに今日である〉

義烈空挺隊は、沖縄戦で米軍に占領された北(読谷〈よみたん〉)飛行場と中(嘉手納)飛行場に突入し、飛行場機能を破壊するために投入された特攻隊だ。1945(昭和20)年5月24日午後6時40分、同隊168人は熊本の健軍飛行場から12機の爆撃機に分乗して沖縄に向かった。何機かの機体が対空砲火で撃ち落とされる中、午後10時11分「只今(ただいま)突入」の通信が入った。1機が着陸に成功。米軍側の記録では「航空機33機が損害を受け、7万ガロンのガソリンが燃えた。(中略)義烈空挺作戦は成功と見なすことができる」と記されている。

2013年、沖縄県読谷村に立つ「義烈空挺隊玉砕之地」の碑を訪れた奥本氏は、サトウキビ畑の中に寂しげに立つ木製の碑を見て驚いたという。1973年に建てられた碑は、読谷中学校の建設に伴い2010年8月、読谷掩体壕(えんたいごう)前に移設された。

「沖縄を守るために戦った義烈空挺隊が沖縄の人に評価されていない。蔑(ないがし)ろにされるような扱いを受けては英霊が浮かばれない」と感じた奥本氏は、数年間、沖縄で顕彰碑の建立を目指し活動した。しかし、沖縄は被害者史観の影響が強く残り、建立活動は難航した。

沖縄での顕彰碑建立は時間を要すると判断した奥本氏は、各地で講演会や勉強会を開き顕彰活動を行いながら、出撃地の熊本に建立することを計画した。熊本にはもともと、陸上自衛隊健軍駐屯地内に義烈空挺隊の慰霊碑が建立されており、関係者らで慰霊祭が行われてきた。

義烈空挺隊の顕彰碑
義烈空挺隊の顕彰碑

しかし、熊本県内で義烈空挺隊を知る人が少ないのは、関係者だけの閉ざされた慰霊祭が影響しており、地元住民が散歩がてらに戦争を学ぶことができる顕彰碑が必要だと奥本氏は考えた。そのため、健軍神社の顕彰碑には、QRコードを取り付けた。スマートフォンなどで読み取ると、奥山隊長の訓辞を肉声で聞くことができる。それだけでなく、同隊の全容を学ぶことができる工夫もされている。

健軍神社では毎年「義烈祭」を開催することを予定している。全国の慰霊祭などでは、戦歿(せんぼつ)者を「犠牲者」として扱っており、知らず知らずのうちに自虐史観を増幅させ、「日本人はいつまで経(た)っても自国に誇りや自信が持てない状況に陥っている」と奥本氏は指摘する。「慰霊より顕彰が大切だ」とし、「国や家族を守るために戦場に赴いた将兵全てを英雄として評価し、正しい戦争の歴史を後世に語り継がなければならない」と訴えた。

語り継ぐ「正しい歴史」軍人二世としての責務

奥本康大氏の父親は、42年2月14日、インドネシア・スマトラ島南部で行われた日本軍のパレンバン奇襲作戦で落下傘部隊として活躍し、昭和天皇に単独拝謁を賜ったことで知られる奥本實(みのる)中尉(最終階級は大尉)。

この部隊よりも先にパレンバン奇襲攻撃の命が下ったのは、後に義烈空挺(くうてい)隊を率いる奥山道郎大尉が所属した挺進第1連隊だった。同隊がパレンバンへ向けて出港した後、輸送船の火災事故で作戦を断念。しかし、事故の2週間後、急きょ編成された挺進第2連隊が慌ただしく門司港から出航した。

奥山大尉は44年秋、挺進第1連隊第4中隊の中から選抜された136人の義烈空挺隊の隊長を任命される。義烈空挺隊はサイパン島作戦、硫黄島作戦の準備に入るがいずれも実行されず、厳しい訓練を続けた。

45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸し、本土への空襲が激化した。この間、日本軍は多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させるも、敵のレーダーに捕捉され、同飛行場に配備された米軍の戦闘機に迎撃された。そこで実行されたのが義烈空挺隊の投入だった。同隊が「特攻のための特攻」だと言われるゆえんである。

奥本氏は「英霊を二度死なせてはいけない」と各地の講演会で訴えている。一度目は肉体の死、二度目は人々の記憶から忘れられる死。「正しい歴史を伝えることが軍人だった父を持つ、自分(軍人二世)の責務だ」

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