前真言宗善通寺派管長、総本山善通寺第57世法主
保護司や教誨師として功績を残す

朝の説法の面白さにファン集う
前真言宗善通寺派管長、総本山善通寺第57世法主の樫原禅澄(かしはらぜんちょう)老師が2月15日、85歳で逝去し、18日に香川県さぬき市の葬祭場で告別式が営まれた。喪主は次男で同派自性院常楽寺副住職の樫原憲澄(けんちょう)師で、後日、本山追悼法要が行われる。同市生まれの記者は、樫原老師と「仏縁」としか言いようのない出会いに恵まれた。
樫原老師は1940年、香川県さぬき市志度の生まれ。高野山大学を卒業し、65年に自性院常楽寺住職に就任。宗派教学部長兼善通寺執行や宗派宗務総長兼善通寺執行長を経て2008年から10年間、宗派管長兼善通寺法主を務めた。12年には教王護国寺(東寺)で営まれる真言宗最高の大法「後七日御修法」で大阿(おおあ)(伝法灌頂(かんぢょう)の導師)を務め、16年に密教教化賞を受賞。四国八十八か所霊場会総裁や香川県文化財保護協会会長を歴任、保護司や教誨(きょうかい)師としても功績を残した。

法要後の挨拶(あいさつ)で憲澄師は、「笑顔を絶やさず法話をしていた」と父について語り、「やりたいことはすべてやった父ですが、唯一の心残りは宝くじが当たらなかったこと。買っては仏壇に供え祈っていましたから。本尊の不動明王が煩悩を焼き尽くしたからでしょう」とエピソードを紹介。しめやかな式場は一転、和やかな空気に包まれた。
先の大戦で父を亡くした禅澄さんは小学4年生で寺を継ぐ。旧国鉄で三駅の津田高校に進んだのは、「つて」ができていいという母の勧めから。野球部に入りたかったが、法要に出かけることがあるので応援団に。一学年下にいたのが記者の姉で、大の野球ファン。明るく、野球部主将の親友だった姉に禅澄さんも引かれたのかもしれない。善通寺を退いて後、常楽寺でインタビューした折、「あなたの家に2度遊びに行きましたよ」と言われたが、当時、小学生だった記者は覚えていなかった。

樫原さんとの2度目の出会いは2007年2月、インドのブッダガヤで開かれた釈迦(しゃか)生誕2550年記念の世界仏教徒大会を取材した折、タクシーでサルナートに行く途中、高速道路のパーキングエリアにいた善通寺仏跡訪問団の引率者が禅澄さんだった。さぬき市の居住と分かり、再会を約した。姉から「禅澄さんはカラオケ友達」と知らされたのは、その後のこと。
歌が好きで高校で合唱団にも入っていた禅澄さんの寺に下宿していたのが、高松第一高校の教師時代に同校合唱部をNHK全国学校音楽コンクールで優勝に導いた竹内肇さん。母の介護で実家に帰った記者が入った合唱団の指導者だった。仏縁は幾重にも重なり、まだ気付かぬものもあろう。
禅澄さんは、お大師さん(弘法大師)生誕の地とされる善通寺の執行長・宗務総長時代から朝の説法を続け、その面白さにファンが多かった。「戦死した父に代わって寺を守っていた母に、浄土真宗のように法話をするようにと言われ、話をするようになったのです。高野山大学の学生時代、地方に出かけて子供を相手に仏教の話をしたのが役に立ちました」と語っていた。善通寺に行ってからは、大人向けに加えて4分ほどの子供向けの「テレホン法話」を始め、毎月二つの法話をテープに吹き込んでいた。
話の終わりに座右の銘を聞くと、「お大師さんと同じ『己の長を説くことなかれ。他人の短をいうなかれ、人に施しては慎んで思うことなかれ、施しを受けては慎んで忘るることなかれ』です」だった。包み込むような温顔が忘れられない。ご冥福をお祈り申し上げます。
常楽寺には平賀源内の墓があり、隣の86番札所志度寺には藤原不比等ゆかりの海女の墓が守られ、瀬戸内の港町には文化的にも都に近い讃岐の歴史が刻まれている。
(文・多田則明)