世界日報 Web版

トモダチ作戦の絆、日米で紡ぐ家族ぐるみの交流


《東日本大震災10年 未来に繋げる希望(6)》

 東日本大震災で米軍が行った大規模な復興支援「トモダチ作戦」から10周年の節目を迎え、宮城県気仙沼市大島で6日、モニュメントの除幕式が行われた。石碑には「絆を永遠に…萬謝(ばんしゃ)をこめて」と刻まれている。

自身が写っているトモダチ作戦10周年イベントのポスターを手にするイームス少佐=沖縄県宜野湾市(豊田剛撮影)

自身が写っているトモダチ作戦10周年イベントのポスターを手にするイームス少佐=沖縄県宜野湾市(豊田剛撮影)

 式典には、海兵隊側のトモダチ作戦の立案者の一人で震災当時、在沖海兵隊の外交政策部次長を務めていたロバート・エルドリッヂ氏の隣に、作戦に参加した軍人の姿があった。現在、海兵隊第3海兵遠征旅団(沖縄県うるま市)で広報企画運用部長を担当するケイリブ・イームス少佐だ。

 この除幕式のポスターには、自分の背丈ほどの大きなシャベルを持つ少年に海兵隊員が寄り添う姿が写っている。イームス氏は、本州とつなぐ橋が崩壊し孤立した大島で復興作業をする中で、当時8歳だった菊田航(わたる)君と出会った。その瞬間がカメラに収められていたのだ。

 航君の自宅は津波で流された。自宅があった場所とその周囲で手を休めることなく土砂をかき分けていた航君にイームス少佐が声を掛けて寄り添った。これがきっかけで、言葉が通じなくてもジェスチャーでコミュニケーションしながら、“トモダチ”の絆を深めていった。今では、2人はトモダチ作戦の象徴となっている。

 当時、第31海兵遠征部隊に所属していたイームス少佐(当時は大尉)は震災発生時、多国籍の災害人道支援訓練のためマレーシアに寄港していた。11日夕方、強襲揚陸艦の艦長から「これから東日本の被災地に向かう」という艦内放送が流れると、隊員は一様にガッツポーズを取って気勢を上げたという。

 上層部の司令で約1週間後に秋田に到着。ただ、日本海側の被害はそれほど大きくなかったことから、間もなくして青森を経由して27日に大島入りした。

 「海には無数の冷蔵庫や自動車が浮かび、電線の上には漁で使う網が掛かっていた。目を疑った」。大島は、本州との交通が遮断されただけでなく、電気、ガス、水道が使えなくなっていた。隊員らはがれきの撤去、被災した家屋の掃除、インフラ整備を担当した。

 「作業をする中、数多くの島民に出会ったが、彼らはいつも笑顔で決して悲観的ではなかった。すべてを失ったのに、私たちに食べ物を届けようとしてくれた。私にとって大島の人々がヒーロー」。「米国で同じことが起きれば、間違いなくしゃがみ込むだけ。ところが、大島では航君をはじめ子供たちも熱心に働いていた」と振り返る。作戦を終え、米軍が撤退する際、数百人もの島民が見送ってくれた光景は、今もイームス少佐の目に焼き付いている。

 沖縄に戻ると、エルドリッヂ氏らと共にホームステイなどのプログラムを企画・実施し、その年と13年、延べ60人ほどの大島の子供たちと保護者を受け入れた。また、トモダチ作戦に携わった司令官の交代式が行われる際も、大島の被災者を招待した。航君の両親も随行し、司令官に記念品を贈るなどして、謝意を表した。

 イームス少佐はトモダチ作戦以後、10回ほど大島を訪れている。そのたびに「一歩ずつ復旧していることが喜び」だが、「まだ完全復旧には時間がかかる」。

 妻と3人の子供を連れてボランティア活動したこともあり、大島は家族にとって大事な場所。菊田さん一家とは家族ぐるみで交流を深め、ほかの島民ともSNSや手紙などでのやりとりは続いている。

 イームス少佐は16年夏に本国に人事異動になったが、昨年夏、4年ぶりに沖縄に戻ってきた。米国の勤務先では、機会あるごとに沖縄異動を希望してきた。「日本を離れていても被災地のことを忘れていなかった。自分の魂の一部はいつでも大島にある」。こう話す少佐の目に涙が浮かんだ。

(東日本大震災10年取材班)

=終わり=

(この連載は、石井孝秀、辻本奈緒子、川瀬裕也、豊田剛が担当しました)