沖縄戦を知る新たな資料
太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本陸軍が首里城(那覇市)の地下に造った「第32軍司令部壕(ごう)」の内部を撮影した写真がこのほど報道公開された。写真には、つるはしで壁面を削った跡や、当時のものと思われるビール瓶などの遺物が確認でき、沖縄戦の歴史をひもとく新たな資料として注目が集まっている。(沖縄支局・川瀬裕也)
掘削跡やビール瓶など
県、今年度中に基本計画を策定
第32軍司令部壕は、沖縄本島を含む南西諸島防衛のため創設された牛島満中将率いる陸軍第32軍によって1944年12月に建設が始まった地下司令部で、総延長約1㌔にわたる坑道からなり、5カ所の坑口が設けられている。内部には戦闘を指揮する参謀室のほか、無線室や救助室、兵士らが寝食をする部屋があったとされる。
今回、報道陣に公開されたのは、守礼門の地下付近にある第3坑道から第2坑道にかけての約100㍍区間と「エンジニアリングトンネル」と呼ばれる区間の一部。代表撮影の写真には、天井が崩落し泥水が溜(た)まった坑道や、つるはしで壁を掘削した跡などが確認できた。また、当時のものと思われる「DAINIPPONBREWERYCo.」と刻印されたビール瓶が並べられている様子も撮影された。
第2坑道は、司令部壕の中枢となっていた第1坑道に続いていると見られているが、天井の崩落や浸水などにより、安全面に課題があることから第1坑道の様子は未(いま)だ解明されていない部分が多い。
県は1993年から、唯一坑口が確認されている第5坑道などで試掘調査を開始するも、落盤の危険から大部分は手付かずのままだった。2019年の首里城火災を機に、地下壕の公開を求める県民の声が広がったことを受け、21年に「第32軍司令部壕保存・公開検討委員会」を設置。測量調査やボーリング調査、磁気による坑道の構造把握などを進めてきた。
県は第1坑口と、第5坑口を優先的に調査・整備し、焼失した首里城正殿の公開に併せて25~26年の一般公開を目指している。同事業を管轄する県の「平和・地域外交推進課」の担当者によると、今年度中に有識者を交えて「保存・公開基本計画」を取りまとめる予定だという。
沖縄戦における第32軍司令部のいわゆる「南部撤退」については、結果的に多くの民間人の犠牲を生んだことからも、現在に至るまで評価が大きく分かれており、検証が不十分な点も多い。
今後の壕内の更なる調査で、当時の状況がより鮮明に解明されていくことが、沖縄戦を振り返る上で重要な手掛かりとなっていくだろう。