初心に帰ったおもてなしを
観光 沖縄バス元社長・大城孝心氏
高校を卒業した後は教員を務めていたが、沖縄バスに勤務していた父親に誘われて1953年、入社した。
米統治下でスタートしたバス事業で、最初に使った車両は、軍用のトラックにホロを掛け、後方のはしごから乗り降りする粗末なものだった。戦争で鉄道を失った沖縄では唯一の公共大量輸送機関として親しまれた。
観光バスツアーが始まったのは、私が沖縄バスに就職して3年後の56年のことだ。沖縄本島南部の戦跡地を訪れる遺族や関係者向けのもので、これが観光立県を目指す沖縄の最初の団体向け観光商品だった。
沖縄戦は全国各地から兵士が集まり、多くが犠牲になった。糸満市を中心に全都道府県の慰霊塔が54~68年の間に建立された。それに、平和祈念堂や全戦没者刻銘碑「平和の礎(いしじ)」といった施設が加わった。全国遠路からはるばる参拝する遺族らのために、できる限りのおもてなしをした。大手旅行社の協力でアコーディオン、クラリネット、シンバルなどの楽器を購入して音楽隊を作った。空港では音楽演奏に加え、貝殻のレイや花束を贈呈することで団体客を歓迎した。
当時は首里城(那覇市)の跡地には琉球大学があったので、首里城を観光すると言っても「守礼の門」前で記念撮影をするだけだった。なお、私は名護市出身。琉球三山の北山の地区で、首里城を居城とした中山に滅ぼされた。私を含めて首里城に対して特別な思い入れはない人は多いのではないか。
ツアーが始まった当初は月に十数団体ぐらいしかなかった。戦跡観光のバスガイドの読み上げ文は私が作り、長い間、バスガイドを教育してきた。この頃は、バスガイドが沖縄の女性の花形の職業だった。
ガイド教育で苦労したのは、標準語を話すことだ。戦時中は小学生だったが、方言を使うと教師に叱られて「方言札」をぶら下げられた。戦後、沖縄県民のほとんどが正しい日本語が話せなかったから、プロの日本語講師を招聘(しょうへい)し、バスガイド相手に話し方講座をしてもらった。
教え子の一人に参議院議員になった糸数慶子さんがいる。70年代に活動家で地元の新聞記者と一緒になってから少し偏った考え方になった。私が現場を直接見ることができないので、どうしようもない部分はあるが、平和ガイドに反戦の要素が入り込んだのは、この頃からだろう。
復帰当時の年間観光客は44万人だが、新型コロナウイルス禍が始まる直前の2019年にはその22倍の1000万人に達した。
復帰してから最大の試練だったのは01年に起きた米同時多発テロ事件だった。沖縄も危ないという風評被害で、観光客がぴたりと来なくなった。そんな中、その年の12月、タビックスジャパンが「がんばれ沖縄3日間」と銘打って200人が訪問してくれた。これがたたき台になって大手旅行会社の企画で「だいじょうぶさぁ沖縄」のキャンペーンをして観光を盛り返した。
今の新型コロナウイルスの影響はその時の比ではない。ひめゆりの塔(糸満市)の周りにある土産屋や飲食店が閉鎖して寂しい光景が広がっている。こうした中でも、初心に帰って誠心誠意おもてなしの心を忘れなければ沖縄の観光は必ず復活する。
(聞き手・豊田 剛)
おおしろ・こうしん 1932(昭和7)年、名護市生まれ。小学校と中学校で教員を歴任。53年に沖縄バスに入社。教育主任として多くのバスガイドを輩出。観光部長、常務取締役を経て、93~99年まで第6代社長を務める。沖縄県観光功労賞の初代受賞者。