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東京五輪が顕在化させた課題


沖縄大学教授 宮城 能彦

新しい目標見出せぬ日本
「多様性」ある社会を目指そう

沖縄大学教授 宮城 能彦

沖縄大学教授 宮城 能彦

オリンピック・パラリンピックが終わった。

 私は、結果的に実施してよかったと思う。おそらく今回の開催地が東京でなければオリンピックは中止になったであろう。多くのアスリートたちが東京開催に感謝の言葉を発していたのも印象的であった。

冗長な開会式に違和感

 しかし、同時に、オリンピックは日本の課題を顕在化させてしまった。いや「してくれた」と表現すべきかもしれない。特にあの冗長な開会式がそうであった。

 開会式については、多くの人が論じているので、ここでは細かく論じないが、そこで分かったことは、要するに「新しい目標を見出(みいだ)せない」ことだと私は思う。前回のオリンピックの頃の「高度経済成長」が再来することを願う気持ちが、いまだ日本人の中に残っているのだろう。

 しかし、1964年の東京オリンピックや高度経済成長のあの勢いを知っている年代は、もはや60代以上である。若者も中堅もそれは「歴史」でしか知らない。

東京五輪が終わり、表示された「ARIGATO」の文字=8日、国立競技場

東京五輪が終わり、表示された「ARIGATO」の文字=8日、国立競技場

 開会式のあの違和感は、既に時代が変わってしまった中で新しい感覚で仕事や生活をしようとしている「若手」と、「夢よ再び」といまだに過去の栄光にしがみつこうとしている「年寄り」の世代間の間で揺れ動いているところから来ているのかもしれない。

 半年ほど前にネットで話題になった「うっせぇわ」(Ado楽曲/作詞作曲syudou)がそれをうまく表現している。

 この歌は、上司や先輩や世間が要求するさまざまな「社会通念」「マナー」「道徳」に対して鬱憤(うっぷん)を晴らす内容である。しかし、かつての学生運動のように大きな社会(改革)運動につながるようなことはなく、その後の時代の尾崎豊の歌のように、学校の窓ガラスを割るような、具体的な暴力に訴えるようなことは決してしない。歌の主人公は、親や社会が望む通りの「人生」を歩んできた、子供の頃からの「優等生」である。

 この歌に対しては、若い世代の上の世代に対するイライラを表現した歌だという評論もある。しかし私は、世代間対立だけでなく、その不満は「同僚」にも向けられていると思う。すなわち、非能率的・非合理的な仕事のやり方を押し付けてくる「同調圧力」や「既得権」に対する鬱憤晴らしなのである。

 東京オリンピックの開会式は、「うっせぇわ」と感じるそのイライラが何であるのかを表現してしまったのだ。それは、さまざまな国際感覚の欠如を露呈させ、高度成長日本モデルの崩壊を意味したのだと思う。

 その点、パラリンピックの閉会式の全体の構成はともかく、ダンスパフォーマンスは素晴らしかったと私は思う。そして、パラリンピックの成功はそれをテレビで熱中して見ていた日本人の感性を確実に変えたのではないだろうか。

 選手たちのプレーの迫力に圧倒されながら、理念である「勇気」「強い意志」「インスピレーション」「公平」が自然に理解できるようになったと思う。

 実は、学生の頃の私はパラリンピックに否定的な考えを持っていた。スポーツで競わせることは、結局は能力主義であり、できることが偉くてできないことは駄目だという価値観に繋(つな)がるのではないかと考えたのである。

 しかし、今回多くの人が感じたように、パラリンピックの選手たちは、そういう考え方をはるかに超えていたのだ。

 「多様性」の重要さは、言葉としては今までも多く語られてきた。しかし、今回のパラリンピックの選手たちのプレーを見て、身体能力の差も多様性の一つとして、理屈ではなく身体感覚で理解できたのだと思う。

 目標をなくした日本を象徴するようなオリンピックの開会式。それに対してパラリンピックは、さまざまな人々がお互いに認め合う「多様性」のある社会の実現こそが一つの目標となるべきではないかと問題提起してくれたのだ。

今回の五輪を転換点に

 国民の心を一つにして高度「経済」成長を目指していた1964年の東京オリンピック。2021の東京オリンピックがそれに終止符を打ち、多様で「こころ」豊かな生活とは何かを考え、それを目指す転換点になればと思う。

(みやぎ・よしひこ)