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神道文化とこれからの日本 培われた共存・共生の思想


生田神社名誉宮司 加藤 隆久氏に聞く

 今年米寿を迎えた生田神社名誉宮司の加藤隆久師は、記念に『神道文化論考集成』<乾・坤>(エピック)を上梓(じょうし)した。内容は、生田神社の御祭神・稚日女尊(わかひるめのみこと)の考察から、神戸の名称の由来となった生田神社の創建、幕末から明治の日本の宗教政策の中核を担った津和野教学、阪神淡路大震災での社殿崩壊からの復興、世界宗教者平和会議での活躍など。これまでの歩みをを伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

国際交流にも努力
探求すべき わが国の貢献

生田神社名誉宮司 加藤隆久氏

かとう・たかひさ 昭和9年岡山県生まれ。甲南大学文学部卒業、國學院大學大学院文学研究科専攻修士課程を修了し、生田神社の神職の傍ら大学で教鞭(きょうべん)を執る。神戸女子大学教授、生田神社宮司を経て現在は名誉宮司。神社本庁長老。文学博士。神戸女子大学名誉教授。兵庫県芸術文化協会評議員、神戸史談会会長、世界宗教者平和会議日本委員会顧問などを兼務。著書は『神社の史的研究』『神道津和野教学の研究』『よみがえりの社と祭りのこころ』他多数。

印象深い出来事は。

 自分のライフワークを決めようと思っていた頃、書画の収集家でもあった父が見せてくれたのが、幕末の国学者で神職の岡熊臣(くまおみ)の筆になる石見国(いわみのくに)・島根県津和野藩の藩校「養老館」の学則でした。当時、近世国学の研究に手を染めていた私は津和野に赴き、調査を始めました。

 熊臣の子孫の岡勝・富長山八幡宮宮司の協力を得て、熊臣が残した500部以上の著書や資料の解明と研究を始めました。15度かけて熊臣の未発表の著述を翻刻(ほんこく)し、1800ページに及ぶ『神道津和野教学の研究』3巻を国書刊行会から出版、同著書を國學院大學に学位請求論文として提出し、同大學より文学博士の学位を授与されました。

 さて、平成7年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7・3という大地震が起こりました。これまで体験したことのない強烈な揺れに、私は目覚め飛び起きました。生田神社は拝殿が倒壊し、境内のいろいろな建物はもとより、石の大鳥居までもが倒れていました。

 私は茫然(ぼうぜん)自失し、頭の中は真っ白になりました。神戸の街全体も悲壮感に包まれ、一体いつ復興できるのかも分かりません。市民が悲嘆にくれている状況下で、私自身も意気消沈していました。神社再興には膨大な歳月と資金を要し、「もうだめだ」とやる気を失いかけていました。「私の人生もこれで終わりかな」と思った瞬間、私の脳裏に亡くなった父親が現れ、次のような言葉を掛けたように思ったのです。

 「君は生田神社の宮司であり、大学教授を兼ねた旧官幣(かんぺい)社の宮司としてただ一人、文学博士の学位を取得し、有名人や文化人と交流し、神社の教化や広報に積極的だが、神社の造営をしたことがあるのか。僕は滋賀県の多賀大社の造営に始まり、岡山の吉備津彦神社の復興、そして太平洋戦争の空襲で焼失した生田神社を苦労して復興・造営してきた。生涯に三度も神社を造営してきた。今こそ、神戸の大氏神生田神社の復興・造営をやり遂げる仕事を、神様が君に与えてくださったのだ」と。

 父親の声でわれに返った私は、心機一転、猛然と働き始めました。「神社は地域のコミュニティーセンターである。生田神社は神戸の地名の発祥の地で、神戸の街と共に栄えてきた。一日も早く神社を復興させることが、神戸市民の希望の光となる。神戸のシンボル生田神社を復興させることが私の使命だ」と決意したのです。そして1年6カ月の早さで生田神社は復興し、神戸復興の先駆けとなったのは、この上もない喜びでした。

神道は日本人の生き方の基層にあります。

 生田神社の御祭神・稚日女尊が天照大神の幼名、あるいは妹神、和魂とされるように、日本古来の神道は自然の恵みの根源である太陽と、生命を産み育てる女性への崇拝を中心に形成されてきたように思われます。神道の生命観は次の三つに集約できます。

 第一は「生命のつながり」です。自然界の全ての存在は神から生まれ、神霊を宿しています。神と人、自然は血縁の親子で、それぞれの生命はつながっていると考えています。

 第二は「生命の再生と更新」です。伊勢神宮では20年ごとに式年遷宮(しきねんせんぐう)が行われ、御殿を新しく建て替え、神様にお遷(うつ)りいただきます。若々しく生まれ変わられた神様の神徳のおかげで、国家や国民の生命力が再生・更新されるのです。

 第三は「生命の連続性」です。人の生命は親を通じて神々から与えられ、死を通じて子孫に伝えられます。人は「生命・生死」を全うする中で、やがて子孫が祀(まつ)る先祖の神となります。神道とは、日本人の神観念に基づいて展開された宗教的実践「まつり」と、それを支えている生活態度(習俗・習慣)、およびその理念と言えます。

 一方、仏たちが人々を救済するというインド・中国由来の深遠な仏教哲学は、日本人が培ってきた生命観と共存・共生の思想に影響を与え、豊かな言葉と論理でそれを補強してきたのです。南都六宗と呼ばれる奈良仏教は、宗教というより今の大学のようなものでした。

 平安時代になると、比叡山に天台宗を開いた最澄、高野山に真言宗を開いた空海らにより、日本独自の仏教教義が確立され、その中で神と仏、神道と仏教の習合が進められます。

 鎌倉時代になると鎌倉新仏教の宗祖たちが、膨大な経典の中から最も重要な教えを取り出し、庶民が信じやすい「易行」として広め、そうした動きに刺激されて旧仏教も復興し、仏教は日本人の精神史の中に確固たる地位を占めるようになります。

今後の神道の在り方は?

 私は昭和49年にベルギーのルーベンにあるルーベン・カトリック大学で開かれた第2回宗教者平和会議に参加し、52カ国350人の参加者の前で神道の祭りを奉仕し、祝詞を奏上(そうじょう)しました。学生時代から古美術研究会で関西の名刹(めいさつ)で合宿を重ね、近年では神仏霊場会の活動をはじめ諸宗教との対話・交流に努めています。また、生田神社で神事芸能使節団を組織し、カナダやドイツ、エストニアで公演するなど神道文化の国際交流にも力を注いできました。

 これからの神道は世界に向けて神道文化を発信し、その日本としての貢献の仕方を探求すべきでしょう。神道を学ぶ外国の研究者も増える中、若い世代に期待するところです。


【メモ】神戸の地名は生田神社からというのは、806年に朝廷から神社を守る家・神戸(かんべ)44戸を頂いたことによる。かんべ↓こんべ↓こうべとなった。面白いのは、朝廷が嫌う兵庫港が開港された時、外国人居留地として同社境内を当時の宮司が提供したこと。時代の先端をいく気概は加藤名誉宮司にも引き継がれている。