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台湾を築いた明治の日本人-渡辺利夫氏


世日クラブ講演要旨

浮かび上がる不羈独立の精神

拓殖大学前総長 渡辺 利夫氏

 世界日報の読者でつくる世日クラブ(会長=近藤讓良(ゆずる)・近藤プランニングス代表取締役会長)の定期講演会が17日、動画サイト「ユーチューブ」のライブ配信を通じて行われ、拓殖大学前総長の渡辺利夫氏が「台湾を築いた明治の日本人」と題して講演した。渡辺氏は台湾の近代化のために尽力した人々の業績を紹介し、「日本人は台湾の開発や近代化、または文明化のために必死に取り組んだ。そういう日本人の中に明治という時代の精神が、最も鮮やかに浮かび上がる」と強調した。以下は講演要旨。

公的意識が生きがいに
「日台交流基本法」制定を

 日本による統治以前の台湾は清国の領土だったが、日清戦争で負けた清国から日本に割譲された。

動画サイト「ユーチューブ」の配信で講演する渡辺利夫氏=17日、千葉県市川市のメディアセンター

 当時の日本は欧米の国々から見ればまだ小国で、文明化されていない国と見なされていた。そんな小国の日本には、海外領土の経営・開発のできるはずがないと思われていたのだろう。

 しかし、日本の指導者は台湾でも日本と同様の殖産興業を行い、台湾を日本本土と同じレベルにまで引き上げることで、日本が文明国であることを列強に知らしめるチャンスと捉えた。台湾に来た明治日本人の中にはさまざまな人間がいたが、今回は磯永吉と八田與一という二人の人間に注目していきたい。

 「蓬莱(ほうらい)米」という米の名前を聞いたことがあるだろうか。これを開発した人物が磯永吉だ。20年以上もかけて、寝食を忘れるほどの努力の結果、生み出された米の改良品種である。当時、台湾はもとより日本市場でも一世を風靡(ふうび)した高収量品種でもある。

 話が現代に飛ぶが、以前のアジアは人口過剰により、十分な食糧を供給できない貧困地域だった。ところが、1960年代末から70年代の初めにかけて、アジアでは「緑の革命」と呼ばれる米の高収量品種の普及・拡大運動が始まった。食料不足であったアジアが、現在ではほとんどの国で米の生産余剰国になっている。この大事業の原点は、実は台湾で開発に成功した蓬莱米にある。

 一人の「忘れられた日本人」杉山龍丸という人物の熱意あふれる努力により、蓬莱米は、インドの飢餓地域である北西部のパンジャーブ州に移植され、そこでさらに改良を重ねられた後、フィリピンに渡った。そこで一層の改良が加えられ、周辺アジアの国々へと普及・拡大していった。もし磯による品種改良がなかったならば、今もアジアの国々は飢餓状態にあった可能性がある。

 改良品種の開発は、数多くのトライアンドエラーと気の遠くなるような作業を続けながら、より良い品種をピックアップしていくということだが、それでもうまくいく可能性は極めて低い。

 実験農場だとうまくいったのに、気象条件と土壌条件が違う地域では全然効果を発揮しないということもよくあった。粒粒辛苦(りゅうりゅうしんく)の努力と忍耐の果てに、磯がついに手にした成果が蓬莱米だ。

 だが、与えた肥料を稲によく吸収させるためには、水を適正にコントロールしなければいけない。改良品種は水の制御された水田で育てることによって、初めてその効果が発揮できる。この条件をつくり出すため、やはり生涯を賭ける大事業に打って出た人物が八田與一だ。

 台湾は土地のほとんどが山地で、平原部はごくわずか。日本でも可耕地は全面積の十数%しかないが、台湾ではそれ以下だ。水田は嘉南平原という場所しかない。この平原に水をコントロールできるシステムをつくろうと八田は必死で考え、ダム建設の計画を立てた。

 このダムは烏山頭(うさんとう)ダムと呼ばれ、現在でも使われている。河を堰(せ)き止めるために、長さ約1300㍍に及ぶ堰堤(えんてい)を築いた。ダムの完成により、大量の水を確保、その水を嘉南平原に少しずつ流していくというシステムを生み出した。中央山脈の南端に幹線水路を張り巡らし、わずかな勾配を使って水を均等に行き渡らせた。

 この巨大な灌漑(かんがい)計画は、日本はもとより世界でも有数なものだった。1936年に米国のフーバーダムが完成するまで、このダムが世界で最大だった。

 計画には幾多の困難があった。トンネル工事中にガス爆発事故が起きたり、こんな危険なことはもうやめよという脅迫に近い指示も出された。また、この建設の途中で関東大震災が起き、予算が大幅削減され、それに伴う従業員の大量解雇もあった。八田はこのいずれをも克服し、ダムを完成させたのだ。

 この建設を通じて、八田の実力は多くの人から認められるようになった。太平洋戦争中も各地のプロジェクトに関わることになり、フィリピンでの綿作の灌漑を命じられ、各分野の技師たちと一緒に出港した。だがその途中、八田の乗った船は米国の潜水艦に撃沈され、部下ともども死亡してしまった。56歳だった。

 台湾のため、多くの苦労と自らの人生の大半を捧げた彼らの姿を通じ、浮かび上がってくる明治の時代精神を一言で表すと、「不羈(ふき)独立」という言葉に尽きる。これは福沢諭吉の言葉で、「羈」とは馬の手綱のこと。他国や他人の介入・干渉を許さず、自らの意思で一人立つという気概だ。

 「公」と「私」という言葉があるが、明治のエリートにとって「公」に生きることが生きがいであった。左翼的・リベラル的な現在の日本では、私的に生きることが重要視され、国家はそれに対抗する悪であるかのように考えられている。しかし、そのような見方の現代人には、明治の気概はなかなか理解できないだろう。国家と個人が苦しみと喜びを共にしていた時代が明治であり、国家の興隆と個人の人生に矛盾のない、貧しいけれども幸せな時代が明治であった。

 残念ながら日本はその台湾と断交せざるを得なかった。中国という巨大でパワフルな存在がある以上、台湾と断交しないという選択は日本にとってはなかった。

 ただ、日本の問題は断交以前の日台関係を継続させるという意図が全くなかったことだ。米国も台湾と断交したが、それ以前の米台関係は全てそのまま持続しており、現在でも両者は同盟関係にある。この米国の国内法(台湾関係法)に類するものが日本にはない。

 日台は断交後も経済交流、文化交流、人間関係が非常に濃い。この日台関係を維持していくため、民間窓口機関を相互につくった。その機関で協定や覚書や合意書を取り交わし、日台の漁業協定や二重課税防止、投資保護協定などを定めている。

 だが、日本には国内法がないため、それらの取り決めや合意を公的に保障する法的根拠は何もないということになる。

 中国の膨張による台湾海峡への圧力は、今後ますます強くなっていくだろう。そういう意味では日本と台湾が安全保障上のやりとりをしたり、情報を共有することが必要だ。しかし、これは民間機関同士で交渉できるものではない。そういうことを含めて、台湾と交流するための法的根拠となる、「日台交流基本法」というべき日本版の台湾関係法を早く議員立法として成立させてほしい。