北朝鮮「帰還事業」に画期的判決 率先し旗振った朝日は反省の弁なし

出港のイメージ(photoAC)
出港のイメージ(photoAC)

「地上の楽園」と宣伝

日本人妻ら9万3000人以上が北朝鮮に渡った「帰還事業」は1959年から79年まで在日朝鮮総連(北系)や日本のマスコミがそろって「地上の楽園」と宣伝し推進された。これに関して10月30日に画期的判決があったが、産経を除き各紙の扱いは小さく、知らない人もおられるだろう。

裁判を起こしたのは2003年に脱北した川崎栄子さん(81)ら脱北者4人で、虚偽の宣伝で勧誘され、抑圧された過酷な生活を強いられたとして北朝鮮政府に計4億円の損害賠償を求めた。昨年3月の一審東京地裁では北朝鮮側の4人への行為を①虚偽の宣伝で勧誘した②出国させずに在留させた―に分け、①は除斥期間(20年)が経過し賠償請求できないとし、②は国外の行為で日本の裁判所に管轄権はないとして訴えを退けた。

これに対して控訴審東京高裁は、①と②は「継続的な不法行為」と評価し、侵害は当初は日本で発生しているため、管轄権は日本にあり、地裁でもう一度審理すべきだとの判断を示した。原告側代理人の福田健治弁護士は「判決は原告が虚偽の宣伝にだまされ、北朝鮮政府が主導したと認めた。外国政府の人権侵害を日本の裁判所で責任追及する可能性を開いた」と評している(朝日ネット30日付)。

1面で喝采した朝日

ここで注目すべきは判決が「虚偽の宣伝」を継続的な不法行為と断じたことだ。とすれば、そのお先棒を担いだ日本のメディアには“幇助(ほうじょ)犯”としての責任も継続していることになりはしまいか。だが、「虚偽の宣伝」のメディアの責任に触れた新聞は皆無で(31日付)、判決を他人(ひと)事のように報じている。

とりわけ朝日は帰還船の第1便が1959年12月14日に新潟港から出港すると、同日付夕刊1面トップで「北朝鮮へ無事船出 歓呼浴び九七五人」と喝采記事を掲載した。これが新聞の「虚偽の宣伝」の代表例だが、それから60有余年を経ても朝日には反省の弁が全くないのである。

産経には反省の弁があった。2009年に黒田勝弘ソウル支局長(当時)が「『人道航路』の痛恨」と題して帰還報道を総括している(同12月19日付)。同事業は途中で“地獄”の実態が伝わり中断したものの、1971年に再開。黒田氏はその再開第1船を新潟港で見送ったという。

「ぼくも他のメディアと同じく『人道の船』とか『人道航路』とたたえて送り出した。今、考えると痛恨きわまりない。非人道を人道と伝えた、北朝鮮に対するこの錯誤、錯覚はどこからきたのだろうか」と自問し、こう語る。

「最大の原因は戦後日本社会に根強かった社会主義幻想と、反日・贖罪史観ではなかったか。…同じ朝鮮半島でも南の韓国は“反共独裁国家”として顧みられず、否定的イメージばかりが流布された。北朝鮮=朝鮮総連のマスコミ情報工作も強力だった。当時の日本社会の朝鮮半島情勢は、朝鮮総連経由で流される親北・反韓的なものがほとんどだった」

産経の石川水穂論説委員(当時)も同年12月26日付に「帰還事業とマスコミの責任」と題し、帰還事業のみならず「北の経済破綻が伝えられた昭和50年代以降も、平壌に招待された多くの記者は、『税金、医療費タダ』『水準高い市民生活』『国造り進む北朝鮮』といった礼賛記事を書き続けた」と指摘し、「拉致問題を放置した責任は、北に無警戒だった政府だけでなく、帰還事業以降、北の宣伝に乗せられ続けたマスコミにもある」と論じている。もっとも朝日は自ら率先して旗を振った確信犯だったが。

71年に阻止運動展開

ちなみに71年の帰還事業の再開時に阻止運動を展開したのが世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の友好団体、国際勝共連合で女性会員らが新潟港まで赴いて「逃げてください」と訴えた。「地獄」に送り込んだ朝日とそれを阻止しようとした同団体と、どちらが「反社会的」かは、言わずと知れたことだろう。

(増 記代司)

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