「議論」しないことが問題
聞く力や論点整理の力養成を

兵庫県知事選挙はさまざまな意味で驚く結果となり、斎藤元彦氏の勝因についてさまざまな分析が行われている。特に話題となっているのは、SNS等のネットと新聞やテレビなどのいわゆる旧メディアとの比較あるいは対立である。
NHKの出口調査によれば、「投票する際に何を最も参考にしたか」との問いに対して「SNSや動画サイト」と答えた人が30%で、テレビや新聞の24%を上回っていた。読売新聞による出口調査でも「新聞やテレビ」が34%、「SNSや動画投稿サイト」が26%であった。ニュース番組の中には「SNSを参考にした人たちの9割弱が斎藤氏を支持しました」と解説するのもあった。
匿名だと発言が過激に
多くの新聞やテレビは、SNSだけを情報源にした多くの若者が斎藤氏に投票したことを取り上げ、メディアに対する不信の広がりに危機感を持っている。
最近の若者、少なくとも私が日々接している大学生たちはほとんどテレビを見ない。見るのはネットだけという者がほとんどだ。もちろん新聞は見出しすら読まない。「今の学生は新聞を読まずテレビしか見ない」と言われていた時代がもはや懐かしい。
ネットにしか情報源を求めない若者に対する危機感は私にもある。しかし、より深刻なことは今の多くの若者は決して「議論」などしないということだ。自分の考えを友人など直接対面で話すことは滅多にない。自分の好き嫌いを含めた価値観を誰かに語るのはSNS上だけだと言えるかもしれない。しかもその表現は、オブラートに何重にも包んで、できるだけ当たり障りのないように、意見が対立しないように最大限に神経を使ったものである。本音を直接語るということを極力避けるようだ。

すなわち、自分の考え方が間違っているのではないか、浅いのではないか、考え方の基になっている情報に誤りはないか、ということを他人に直接話すことによって検証するという機会が極端に少ないのだ。
ところが、よく言われているようにそれが匿名となると人格が変わったような過激な表現をする者も少なくない。私が知っている学生にも、現実世界とネットの匿名社会ではまるで別人のような者がいる。過激な発言はネット上だけなのだ。
考えるべきことは、もはやこれが今の日本の現実であるということである。そしてそれを前提としなければならない。そして、もう戻ることはないだろう。
残念ながら、ネットに翻弄される人は増える一方だ。そしてそれが直接投票行動に繋がっていく事例も増えるだろう。SNSの偏りや危険性をいくら新聞やテレビで訴えても、そもそも彼らはそれらを見ていないのだから。また、同じことをSNSで訴えたところで、膨大にある情報の一部としか受け止められず、結局、より印象的なもの、衝撃性のあるもの、既成の価値観を打ち破っているように見えるものにしか目はいかないであろう。悲しいことだがそれが現実である。バズった方が勝ちであり正義なのだ。もちろん、仕方がないからそのままでいいということではない。
「テレビや新聞は偏っているからSNSこそ多くの情報を集められる」と考えている人たちと、その人たちは「SNSの偏った情報しか知らないから偏っている」と考えている人たちの対立は、実は、情報の収集の仕方に問題があるだけでなく、その後に面と向かって「議論」していないことにも問題があるのではないか。
気軽に議論できる国に
しかし、日本人は議論が苦手である。すぐに感情的になり結局相手の人格否定に繋がることが多い。それを乗り越えなければならない。身近にいる異なる意見の者と日常生活において自由に後腐れない議論ができる日本。論破することが目的ではなく、自らの考えをレベルアップさせるための議論を気軽にできる日本。そう考える方が逆に理想論過ぎて非現実的なのだろうか?
しかし、情報リテラシーとともに相手の意見を聞く力、論点を整理する力、伝える力の養成もますます重要になっていることは確かだと私は思う。
(みやぎ・よしひこ)