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不寛容な社会となった現代

沖縄大学教授 宮城 能彦

ハラスメントとの言葉跋扈
お互いの人権認め合う方法は?

沖縄大学教授 宮城 能彦

45年前の高校3年生の夏。のんびり者の私も進路を決定しなければならない時がやってきた。

本来は理系志望で勉強は専ら数学ばかり。クラスも物理Ⅱと化学Ⅱを選択した理系国立コースであった。しかし、どうしても県外の大学に進学したい、すなわち沖縄という小さな島から脱出したい私は、家庭の経済力を考えると実験などで忙しくバイトなどできそうにない理系を諦めざるを得なかった。

今から思うと何とかなったような気がするが、当時は島から出たい一心だったので気持ちに余裕がなかったのだ。もともと歴史や地理や倫理などが大好きだったので、人文・社会科学の道に進もうと決心した。

しかし、具体的に人文・社会科学の何を専攻すべきか?が決められない。自分は何が一番好きなのか?が分からないのである。

法学へのイメージ変化

そこで、消去法で考えてみることにした。人文・社会科学の中でどうしても好きになれないのは何か?

真っ先に浮かんだのが法学である。歴史物語や紀行文やルポルタージュを読むのは大好きだが、法律の条文は読む気がしない。

自然や社会の何かを自分なりに発見しようとする試みは好きだが、過去に誰かが作った法律の文章を読んだり解釈したり暗記するのは自分には全く向いていないと思ったのだ。

さらには、法律をやる人は「お堅い人」「融通が利かない人」「人間的に面白くない人」だという偏見が当時の私にはあった。

結局、具体的に何を研究するのか分からない社会学を専攻したのだが、私には相対的に最適な選択だったと今でも思っている。

その後、残念ながら沖縄では素敵な法学者や法律家に出会うチャンスには恵まれなかった。そのために私の法学に関する漠然としたイメージの基本にあまり変化はなく還暦過ぎまで生活してきた。

そのイメージを変えたのが、前回のNHK連続ドラマ「虎に翼」であった。こういうことを書くのは一応、社会科学者の端くれとして実は恥ずかしいのではあるが、事実だから仕方がない。

私が考えさせられたのは、戦争孤児のために奮闘し「家庭裁判所の父」と呼ばれた実在の人物、宇田川潤四郎をモデルにした多岐川幸四郎の言葉である。

「法律っちゅうもんはな、縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が幸せになるためにあるんだよ」

当たり前といえばあまりにも当たり前過ぎる言葉であり、さすがに青過ぎる議論かなと私自身が思わなくもないが、しかしそれは多くの人が知らない、あるいは忘れている基本ではないだろうか。

例えば、犯罪を減らすには、とにかく罰則を厳しくすべきだ、という単純な議論である。私たちは、ごく一部の凶悪事件だけを見て数的な全体像を見ることなく印象だけで判断してしまい、罰則が甘いからだと考えがちだ。

社会学的には、厳罰主義が犯罪を減らす効果があるとは言えず、犯罪者は増え、犯罪が地下に潜る(潜在化する)だけである。かといって緩くすれば犯罪が減るわけでもないから厄介だ。要するにバランスだということになるが、そう考えると多岐川幸四郎のこの台詞(せりふ)は基本中の基本だということになる。

人間関係良好に保てず

ところが、最近はどうであろうか。さまざまな人権意識が浸透していったことは全体的には評価できるが、ハラスメントという言葉が跋扈(ばっこ)し過ぎると多くの人は思っているだろう。学校でも会社でも、学生や部下や後輩を指導することが極めて難しくなってきている。組織の中における直接的な人間関係を良好に保つのが困難だ。要するに不寛容な社会になっているのだ。しかしこれは日本だけではないのかもしれない。

私が勝手に多岐川幸四郎流に言うのなら、ハラスメントという言葉は世の中を窮屈にするためにあるのではない、ということになる。もちろん、マイノリティーの人権を守るのは当然のことである。

多くの人が、明るく伸び伸びとお互いの人権を認め合う、そんな方法はないのであろうか。たまには高校生に戻った気分でこんな青いことを考えてもよいと思う。

(みやぎ・よしひこ)

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