話は2015年のギリシャ金融危機の時だ。ギリシャの政治家が、「わが国にはもはや支払う金がない」と慨嘆した記事を読んだ時、ドイツの哲学者クリストフ・チュルケ氏が独週刊誌シュピーゲルのインタビュー記事(15年5月16日号)の中で語った内容を思い出した。
チュルケ氏は「なぜ、人々は金の話となれば冷静に話せなくなるのか。それはお金の誕生には宗教的起源があるからだ」と語る。
いつからか分からないが、人類は「高き天上にいましたもう存在(神々)」に対して罪意識があった(キリスト教では原罪)。そして、破壊し、全てを無にする天災を恐れてきた。天災を回避するために、神々に対し、罪を償わなければならないと感じてきた。だから、神々の怒りを鎮めるため最も大切なものを供え物として捧(ささ)げた。
最初は人間が供え物となった(例・旧約聖書「創世記」のアブラハムのイサク献祭)。それから贖罪(しょくざい)用の動物(古代ギリシャ時代は「牛」)を供え物とした(「お金」はラテン語ではPecuniaだが、その語源は「牛」を意味するPecusだ)。その後、金、銀、銅といった貴金属が贖罪手段として登場した。そして現在、流通している紙幣とコインの「お金」が生まれてきた。すなわち、「お金」を「支払う」とは、贖罪のために供え物を捧げることを意味していたわけだ。
贖罪手段(支払い手段)は時代が進むにつれて、より軽く、交換しやすく、人間に負担が少ない方法へと変わっていった。21世紀の今日、デジタル通貨も誕生した。それにつれて贖罪という宗教性は希薄化していき、「お金」は単なる購買力を表す手段と見なされてきた。
実物経済より多くの「お金」が市場に流れ、投機に走る人間も出た。使い切れないほどの「大金」を抱える富豪が生まれてきた。しかし、巨額の富を抱える資産家も資産減少という悪夢に脅かされる。「お金」が購買力を失えば、その瞬間、紙屑(かみくず)にすぎなくなるからだ。その意味で、古代から現代まで「お金」には常に恐れが付きまとってきたことが分かる。
チュルケ氏は「巨額な工費で建設された欧州の欧州中央銀行は神殿であり、その銀行頭取は神父だ。彼は信者たちの罪の贖罪に耳を傾ける聖職者の役割を果たしている」というのだ。すなわち、銀行とは「お金」の価値を集団で守る場所であり、預金者は銀行の「お金」の管理能力を信じなければならない。その信頼が崩れれば、銀行は存在できなくなる。金融危機は顧客(信者たち)の銀行(神殿、教会)への信頼喪失がその根底にある。
われわれが罪意識を失い、贖罪意識を無くしたとしても、天災は昔のように襲ってくる。現代人が感じる漠然とした「不安」とは、天災を回避するために必要な贖罪を支払っていない、という後ろめたさに起因するのではないか。経済学的にいえば、われわれは債務未払い状況にある、という不安だ。
蛇足だが、キリスト教会は、「人間は罪人だ。だから罪の贖(あがな)いとして汗と涙を流して得たお金を神の前に供え物として捧げるように」と説教してきた。そして、教会の「献金」制度ができた。現在のキリスト教会が財政危機に陥るのは、罪意識のない信者が増えてきたからだ。贖罪意識が伴わない「お金」が今、市場に溢(あふ)れているのだ。
(ウィーン特派員)





