トップオピニオン記者の視点桶谷秀昭さんの思い出 岡倉天心に見た「憂ひ顔」

桶谷秀昭さんの思い出 岡倉天心に見た「憂ひ顔」

 今年亡くなった人物の一人に文芸評論家の桶谷秀昭さんがいる。最後にお会いしたのは2015年5月、東京・港区のホテルでの「浅野晃先生を偲ぶ会」。浅野さんの遺稿集『浅野晃詩文集』(鼎書房)が出版され、それを記念する会を兼ねていた。桶谷さんは講演者だった。

 その頃、もう執筆の仕事はしていらっしゃらなかったようで、かつて書いた文章「『天と海』浅野晃」を朗読され、話された。『天と海』は浅野さんの代表的な詩集で、戦争の犠牲となって消えていった若者たちへの鎮魂の挽歌(ばんか)。それらの詩句を紹介しつつ、桶谷さんはこう語った。

 「浅野晃の文業は知る人にはよく知られてゐたが、敗戦と戦後のながい歴史的時間は、この文学者のほんたうの姿を悪意の遮蔽(しゃへい)幕をもって隠した」

 桶谷さんはその悪意の遮蔽幕を取り払って正当に評価しようとした評論家だった。小紙に連載された浅野さんの『浪曼派変転』が本(高文堂出版社)になっていたので差し上げると、桶谷さんは目次をご覧になって、「文学史上類例のない、極めて資料的な価値の高い一冊」と話してくれた。

 浅野さんと桶谷さんは世代が違っていたが、共通点があったのではないかと思う。それは「明治の精神」を基盤にその後の文学と歴史を考えようとした点である。ここでいう明治の精神とは岡倉天心と内村鑑三のことだ。

 桶谷さんは内村の英文著作は全て原文で読んでいた。天心の『茶の本』はご自分で英文から翻訳され、原文も添え、解説していた。その『茶の本』(講談社学術文庫)の読み方には独自なものがあり、その独自性は『昭和精神史』(戦前編、戦後編)をはじめとする膨大な仕事にも共通していたと思われる。

 『茶の本』の中にこんな一節がある。「西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸にふけっていたとき、野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮(さつりく)を犯しはじめて以来、文明国と呼んでいる。(中略)もしもわが国が文明国となるために、身の毛のよだつ戦場の栄光に拠らなければならないとしたら、われわれは喜んで野蛮人でいよう」

 これは物質文明の模倣に明け暮れている明治日本への抗議であって、これに日本人が耳を傾けることを期待できないために、抗議は悲嘆の翳(かげ)を濃くすると解説する。それで天心の顔に「憂ひ顔」を見るのだ。この悲嘆の旋律は、浅野さんの詩にも、内村の評論文にも響いていたものだった。

 かつて桶谷さんが小紙に文芸時評を連載中、執筆者の立場と編集者の立場とで食い違いが生じて、品川区のご自宅を訪ねたことがあった。桶谷さんは怒らず、急がず、心静かに抹茶を振る舞ってくれた。「喫茶去(きっさこ)」という禅語そのままの振る舞い。茶道の心得があったのだ。話し合いに時間がかかると、今度は寿司(すし)を取ってくれ、そのうち桶谷さんが名案を出してくれて解決へとつながった。

 桶谷さんに座右の銘があった。「人の影に惑う勿(なか)れ己れの影を踏む勿れ」。天心の言葉で、人というのは他人のことで、右顧左眄(さべん)するなとの意。己れの影を踏む勿れとは、新しい境地を開いてもそれを模倣し繰り返してはならないという意。敬愛する文芸評論家だった。

(客員論説委員)

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