故郷の広島・呉から岡山に、鉄道で小旅行した。呉線で走る広島は海が美しい。小島が点々と朝もやの中に浮かび、牡蠣筏(かきいかだ)が田園のように瀬戸内の海に広がる。瀬戸内海はいつもないでいて、日本海や太平洋のような大きな波はない。
やがて電車は岡山に入る。山陽本線で走る岡山は川が美しい。和気辺りはとりわけ目を見張る。
吉井川にハヤが群れを成して泳ぎ時折、パッと方向を変えると銀鱗が太陽を照り返し集団剣舞を見たような気になる。
この間、眼(まなこ)は自然だけにとどまらない。専ら出入りする高校生を眺める。
とりわけ女子高校生には驚かされた。隣の向かい合わせの4人席に座った4人組はみんな手鏡を取り出し、化粧を始めた。2、3分で終わると思いきや、20分、30分と降車するまで延々と続く。みな目鼻立ちが整ってかわいい。髪もほつれ毛一つなく、隙がない。
やはり広島県人は美人が多い。色も白い。冬場、雲に覆われ雪に閉ざされる越後美人に負けず劣らずだ。
だが孫の嫁にどうかと夢想すると、心は納得しない。
大体、高校生で色白美人は要警戒だ。あっと過ぎ去る大事な青春の時間を、化粧なんぞにたっぷり費やす心根が何より気に入らない。
学生時代、同じクラブの一人の女性には敬意を払っていた。その女子学生はいつもすっぴんで、着ている服はジャージだった。
なぜ化粧もせず、ストイックなドレスコードを課すのか聞いてみたことがある。
彼女はこう答えた。
「大体、女が化粧をするのは異性の目線を集めたい、注目されたいというのが動機でしょう。男に媚(こ)びを売るような美しさは、私の人生にとって邪魔物でしかない。だから年中、ジャージ服で通し、髪はショートカット、唯一の化粧は毎朝、石鹸(せっけん)でじゃぶじゃぶ洗うだけ」
「中には自分の尊厳を、美しく装う化粧で磨きをかけるということがあるかもしれないけれど、私の人間としての尊厳はそうした美には求めない」
と、こういった具合だった。実に簡潔ですっきりした人生哲学を持っていたし、それを実行し切る覚悟もあった。
美とは違った彼女の尊厳とは、スポーツと専攻学問を究めることだった。彼女は卒業するまで黒く日焼けした健康美人だった。
孫の嫁には、そうした一徹の女性がいいと勝手に思っている。磨くべきは魂の美で、追求すべきは後世にまで光り輝く可能性を秘めた学究精神だ。
わずか1日で剥落する化けの皮の手入れにうつつを抜かすほど空(むな)しいものはない。
電車の中で、目は真っ黒に日焼けしたスポーツ少女を追ったが、結局、一人も見つけられなかった。
理想の女性は、初夏の蜃気楼(しんきろう)のように現実には存在しなかった。
なお孫はまだ1歳に満たず、お乳を欲しがる乳児だ。
(元バンコク特派員)