トップオピニオン記者の視点明治政府が犯した失態 宗教政策突かれ成果なし【記者の視点】

明治政府が犯した失態 宗教政策突かれ成果なし【記者の視点】

 明治4(1871)年12月23日、1隻の船が横浜港を出港した。行き先は、米国サンフランシスコ。その船には、明治新政府の使節団が乗船していた。

 歴史上、岩倉使節団と呼ばれる外交使節団で、特命全権大使の岩倉具視をはじめ大久保利通、山口尚芳、伊藤博文、木戸孝允ら総勢105人(107人とも)が乗船した。

 日本に帰国したのは、明治6(1873)年9月13日で、約1年10カ月にわたるものだった。

 使節団の主目的は、安政5(1858)年に江戸幕府と結んだ五カ国条約(米、蘭、露、英、仏)と、その後に結ばれた修好条約の改正を求めるものだった。

 いずれも不平等条約と言われるものだったからだ。これに付随して、各国の元首に国書を渡すことと西洋文明に関する調査があった。

 使節団は欧米12カ国を巡ったものの当初の目的である条約改正はならなかった。

 その理由について「法整備が整っていなかったから」というのが通説だが、実は明治政府の宗教政策に問題があったからだ。「キリスト教禁教政策」と「弾圧」だったことはあまり知られていない。

 すべての国から問題視されたのが、明治元(1868)年と明治2(1869)年に起きた五島崩れと慶応3(1867)年から明治6(1873)年まで続いた浦上四番崩れでいずれも長崎県で起きたキリシタン弾圧だ。

 それに加え、慶応4(1868)年に4月7日明治政府が出した「五榜の掲示」(禁令)だった。その中の第三札に書かれていた切支丹・邪宗門の禁止が問題となった。

 ちなみにこの中には廃仏毀釈(きしゃく)(仏教排斥運動)もあったため日本国内でも物議を醸していた。

 こうした明治政府の動きは逐一、日本に駐在する各国大使によって自国に発信されていた。一方、国内はキリシタン弾圧を正当化し、今でいう「内政干渉」という空気が広がっていた。

 驚くべきは、明治政府の外交調査不足というべきか。相手国12カ国はキリスト教国なのに、使節団が各国遊説をしている間も弾圧は続けられていたのだ。その状況は各国に筒抜け、行けば必ず指摘され改正どころではない状況に追い込まれた。結局、明治6(1873)年に「五榜の掲示」は撤去され事実上廃止となった。

 明治政府が誕生した19世紀後半の世界は、厳格なカトリック(旧教)とやや世俗的なプロテスタント(新教)が1648年のウェストファリア条約によって双方同権と認めたことで、キリスト教をベースにした信教の自由が生まれ、着実にそれが根付いた頃でもある。

 世界のキリシタンは同胞とする世界観が生まれた。

 使節団の多くは、それを知ってか知らずか、知らなかったという方がいいのかもしれない。そんな状況の中で、「キリスト教禁教」「キリシタン弾圧」をしている国が条約改正に来たといっても、相手にされないのは当然だろう。

 明治政府の失態は、交渉相手国がキリスト教を信じる国なのにそれを半ば無視して交渉しようとしたことにある。それから150年以上たつが日本の外交はあまり変わっていないように思うのは気のせいか。

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