サンデー編集長 佐野 富成
今年、サッカーのプロリーグ、Jリーグが誕生して30年を迎えた。この30年を振り返ると、日本のスポーツ史を劇的に変え、“観(み)る”だけから“参加”しよう、してみるスポーツへと着実に変化しつつある。
サッカーのプロ化は、日本代表の強化と2050年にサッカーのW杯で優勝することを目標とした。一方、Jリーグ100年構想を打ち出し、サッカーのみならず日本のスポーツ全般を文化として根付かせるための努力を今も続けている。また、Jリーグは、欧州のような世界的なサッカーリーグを目指し、地域密着を前面に押し出しスタートした。あえて企業名を冠せず、チームが在籍する都市名を必ず付けることで、「おらが街のチーム」として地元住民と密接な関わりを持つようにした。
ところで30年前といえば、スポーツのプロリーグは、日本では野球以外になかった。それもスポンサーと言われる企業が全面バックアップするもので企業を宣伝するためのチームという色合いが濃く、地域密着ではなかった。これをJリーグは変えようとした。
誕生時のエピソードを一つ紹介したい。
今やJリーグの常勝軍団と言われこの30年間で国内リーグ、カップ戦を含め国際大会であるAFCチャンピオンズリーグを合わせJリーグ所属(J1~3まで)60クラブ中、最多の20個のタイトルを保持する鹿島アントラーズ(茨城県)だ。
現在、茨城県鹿嶋市、神栖(かみす)市、潮来(いたこ)市、行方(なめかた)市、鉾田(ほこた)市の5市(約28万人弱)がホームタウンとなっている。そもそも、30年前のJリーグ発足時には「99%参加は無理」と当時の初代Jリーグチェアマン川淵三郎氏から告げられ、参加の可能性はほぼ皆無の状況だった。この時、すでに既定路線でチーム選定が進んでいたこともあり、鹿嶋の陳情は少々煙たがられていた。ただ、鹿嶋側が諦めずに熱心な働き掛けを行っていたことから、条件として「屋根付き1万5000人収容のサッカー専用スタジアム建設」という要望を出した。川淵氏には「これで諦めてくれるだろう」という思いがあった。しかし、鹿嶋側は諦めなかった。世界のサッカー界のビッグネーム、ブラジルのジーコ氏(後の日本代表監督)を招聘(しょうへい)し、チームを強化。さらに川淵氏が要望したスタジアム建設に茨城県知事を動かした。これには川淵氏も根負けし、大逆転で最後の枠を獲得し、Jリーグ参加が認められた。
そして、今や国内最多のタイトルを誇るチームになった。オリジナル10と言われるチームの中で、J2陥落を経験していないチーム(ほかに横浜F・マリノスのみ)として実績を積み重ねている。一地方都市がチームと行政、住民参加で強いチームをつくり上げた鹿島の例は、クラブチーム創設の見本ともなった。
サッカーの成功は、スポーツ界のみならず教育や経済などさまざまな面から注目を集めた。2015年には、初代Jリーグチェアマンだった川淵氏が、リーグ運営を巡り、深刻な分裂状態にあった日本バスケット協会の改革に着手し、Jリーグの理念を注ぎ込み都市名を冠したチームが結集した現在のバスケットプロリーグ、Bリーグを誕生させた。そして、今年6月には不祥事が相次いでいた日本バドミントン協会の再生を託されたのは第5代Jリーグチェアマンを務めた村井満氏だ。
バスケットやバドミントン、バレーボールといった各種スポーツにも影響を与えるようになってきている。