トップオピニオン記者の視点【記者の視点】エベレスト初登頂70周年 探検からスポーツ、そして芸術へ

【記者の視点】エベレスト初登頂70周年 探検からスポーツ、そして芸術へ

客員論説委員 増子 耕一

世界最高峰エベレスト(8848メートル)が初登頂されたのは1953年5月で、今年70周年を迎えた。登頂したのは英国隊で、ニュージーランド人のエドモンド・ヒラリー卿とネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイ。これを記念して先月、麓のクムジュン村で記念式典が行われた。

8000メートル峰が最初に登頂されたのはアンナプルナI峰(8091メートル)で、1950年、フランス隊によるもの。最後に登頂されるのはゴザインタン(8027メートル)で、64年、中国隊。15年間に全14座すべてが登られた。

同じ時期に作家・深田久弥は山岳雑誌にヒマラヤについて書き続け、『ヒマラヤの高峰』(5巻、雪花社、64~66年)を上梓(じょうし)。さらに収録されなかった分を含めて136座を載せた『ヒマラヤの高峰』(3巻、白水社)を刊行したのが、没後の73年。この大著はヒマラヤに憧れた人々に読まれ続けた。エベレストの章でこう記す。

「普通ヒマラヤでは一度登頂されるとその山へは振り向かず、他の処女峰におもむくのが各国登山隊の例だが、この地球上の『第三の極地』だけは別であった」

過去70年間で6000人以上がエベレストに登頂する一方、300人以上が命を落としたという。

14座が登り尽くされる頃、探検の時代は終わったと考える人が現れた。H・レツヒエンペルクは『天国地獄ヒマラヤ』の結びで「今後どう発展するかは予測しがたい。しかし事情は、百年前のヨーロッパのアルプスとそう違うまい。一度堰を切れば、人間の活動能力はほとんどその限界を知らない」(福田宏年訳)と記した。

不可能と思われたことが成し遂げられ、冒険はスポーツになる。彼の予想したごとく、いろいろなタイプの登山が行われるようになる。

イタリア人のラインホルト・メスナー氏は86年、8000メートル峰14座を完登し、それに続く人たちが現れた。一方、国際公募隊によるガイド登山が現れ、大勢の人たちが登るようになった。応募すればガイドが頂上に導いてくれる。6000人以上という異常な数字の原因もこれだ。

ヒマラヤで、アルパインスタイルで登攀(とうはん)する人々も多くなった。これはヨーロッパで発達した方法で、荷物を軽くして、ベースキャンプから山頂まで一気に登り詰めていく。日数は山によるが、時間を短縮することで危険地帯にとどまる時間は短くなる。

ピオレドール賞は、難易度の高い独創的な登山をしたクライマーたちに与えられる賞。これを3度も受賞した日本人クライマーが平出和也氏だ。著書『What’s Next? 終わりなき未踏への挑戦』で、アルパインスタイルを選んだ理由を語る。

若い時、国際公募隊に入ってチョー・オユー(8188メートル)に登頂したが、他人によって手筈(てはず)が整えられた登山はもうごめんと結論を出した。ヒマラヤの地図を広げて空白地を探し出し、現地に赴いて「宝物」を見つけて計画を練る。受賞理由となったインド・カメット峰(7756メートル)、パキスタン・シスパーレ(7611メートル)、同・ラカポシ(7788メートル)はそうして登ったのだった。

未知の領域での冒険だったが、1本のルートを氷壁に描いていく姿は、あたかも超絶技法を繰り広げる音楽演奏のような感動を誘う。登山は冒険からスポーツになったが、さらに芸術に近づいているのではあるまいか。

フランスの名ガイド、故ガストン・レビュファは著書『星と嵐』や映画『天と地の間に』を残したが、まさしく芸術作品だった。

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