客員論説委員 増子 耕一
「プラトンの呪縛(じゅばく)」という言葉がある。言葉の由来は、プラトン論として知られたカール・ポパーの著作『開かれた社会とその敵』にあり、その意味するところは、20世紀に登場した全体主義の思想的源泉はマルクス、ヘーゲル、そしてプラトンにその起源があるというもの。
優れた哲学と精神を持った「哲人」による統治と、全体主義的独裁政治との関連を巡る論争が展開されたが、最近になってその背景を知るようになった。
というのは、中国の人権弾圧やロシアのウクライナへの軍事侵攻など、民主主義の前途が危ぶまれている今日、民主主義を問い直す著作が相次いで出されているからだ。
古代ギリシャ史家の橋場弦氏の『古代ギリシャの民主政』(岩波新書)と、政治学者ジョン・キーン氏の『民主主義全史』(ダイヤモンド社)は、共に民主主義の価値を再考させるもの。両者ともプラトンについてこれまでの哲学史が語ってきたのとは反対の視点、つまり民主政の側からのプラトン像を提示しているからだ。
橋場氏は、古代ギリシャの民主政について、誕生、市民参加のメカニズム、試練と再生など、その実際を明らかにしている。この20年間に著しく変貌した研究成果を取り入れたものだという。
民主政の基本は「分かち合うこと」。兵役も、財政負担も、祭祀(さいし)も、情報も、公平に分かち合うもの。それは包摂と統合につながり、「嫌いな人と共生する」技術だった。だが、その技術はローマによる征服とともに消え、体系的な理論を残さず、記憶も消える。他方、民主政を批判したプラトンらの理論は古典として受け継がれ、「衆愚政」のレッテルだけが残った。
プラトンが登場するのは、紀元前404年、アテネがスパルタに全面降伏して、民主政が転覆され、寡頭政が成立した時だ。30人政権と呼ばれ、首領クリティアスはソクラテスの弟子で、プラトンの親族でもあった。
30人政権は支配権を確立すると、護衛隊300人を用いた殺人集団と化し、民主派や富裕層を処刑し、財産を没収、財政基盤にした。1500人もの犠牲者を出したというが、プラトンは彼らに期待する書簡を綴(つづ)っていた。
民主政からの見直しはジョン・キーン氏も同様で、プラトンはじめ哲学者らはみな反民主主義者だったという。だが民主主義者らは書くという行為をしなかったために、反民主主義者のなされるままに終わったと惜しむ。
二人の著作は、民主主義の新たな可能性を示すことにあったが、故人となった西洋中世史家の増田四郎氏もまた、最晩年の著作『ヨーロッパ中世の社会史』(講談社)の中で、遺言のようにこう述べている。
「ヨーロッパの中世は、ローマ帝国の否定という大きな成果を、実に千年かかって成し遂げた」「ヨーロッパが演じた世界史的な意味は、民衆の中にデモクラシーという精神を育て、それを守り抜く途を歩んだことだ」
西洋で使われてきた市民の概念を、古代から近代までたどってみると、古代ローマ帝国時代にキリスト教が導入され、アウグスティヌスの『神の国』という著作とともに「神の民(市民)」という概念が生まれる。これはキリスト教徒を意味した言葉だが、神の下の「兄弟」という考えは西洋史の源泉となり、都市などさまざまな共同体の形成に役割を果たしてきた。
増田氏が語った「民衆の中のデモクラシー精神」を育てた土壌に、キリスト教の霊性があったことも無視することはできない。