編集委員 森田 清策
今年後半は、政治もメディアも世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題一色だった。今月、被害者救済新法が成立したが、「マインドコントロール」(精神操作)を巡る論議はまだくすぶっている。解散請求判断は年越しとなり、新年も「政治と宗教」を問う情勢は続く。
年の瀬が近づくこの時期、安倍晋三元首相に対するテロ事件で火が付き、半年に及んだ旧統一教会バッシングを振り返って痛感するのは、政治家の宗教的感性と人権感覚の希薄さだ。それを象徴する国会審議があった。
立憲民主党の打越さく良・参議院議員が、旧統一教会との関係を指摘されていた山際大志郎経済再生担当相(当時)に対し、信者か否かを問うた(10月19日)。同氏は弁護士として夫婦別姓訴訟に関わるとともに、同性婚に賛成するリベラル派。当然、人並み以上の人権感覚を持っていてしかるべき政治家だ。
ところが、たとえ公的立場にある人間であろうと、個人に対して信仰を問うのは「信教の自由」を保障する憲法に反する行為だが、それを公衆の面前で行い、人権感覚の欠如を露(あら)わにした。山際氏もお粗末で、「信者ではない」と、躊躇(ちゅうちょ)しながらも答えた。本来なら「憲法違反の質問には答えられない」と、打越氏を諫(いさ)めるべきだったのだ。
打越氏の質問は当選1回の政治的に未熟な議員の特異な所業というわけではない。少数者や弱者に対する思いやりなどリベラル思想を大切にしているはずの立民党は新法の成立間際まで、マインドコントロール概念を入れ込むことに固執した。しかも、岸田文雄首相でさえ、国会審議で「マインドコントロールによる寄付については多くの場合、取消権の対象になる」と口走ってしまっている。
「あなたはマインドコントロールされている」と言うのは、人の内心に土足で踏み込むことだから、宗教信者に対する深刻な人権侵害である。そこに気付かないのは、人生で宗教的な思考プロセスを体験してこなかったことの表れか。宗教は、世俗の価値観を超えて存在する。それを俗語を用い、世俗の尺度で善し悪しを判断するのは宗教に無知な人間がやることだろう。
リベラル派はよく「内心の自由」を叫ぶ。例えば、安倍元首相の国葬儀に反対した政治家や知識人は、「弔意を強制するもので内心の自由を侵害する」と主張したが、旧統一教会信者の内心侵害については口をふさいだままだった。
その一方で「旧統一教会は宗教でない、カルトだ」という声を聞いた。「カルト信者の人権を考慮する必要はない」と言わんばかりの言動もあった。これらは人権のダブルスタンダード(二重基準)以外の何ものでもない。
戦前、左右の全体主義と闘った思想家、河合栄治郎はルターらの宗教改革に「『信仰の自由』という自由の思想、すなわち自由主義の萌芽(ほうが)」を見いだしたという(岩田温(あつし)著「『リベラル』という病」)。信仰の自由の重要性を知ってこそ本物のリベラリストだ。
逆に、宗教的感性を欠いた今のリベラル派は、政治や思想的立場を超えて少数者や弱者に愛情を注ぐ本物のリベラリストではない。反対勢力や体制派を攻撃するか、自分たちの利益を守るときだけ「人権」を叫ぶ反体制派(左派)にすぎないのである。