サンデー編集長 佐野 富成
まさしく11月23日は、記録・記憶に残る日になったに違いない。中東初、カタールで開催中のサッカーのワールドカップ(W杯)で、日本は優勝候補のドイツ相手にジャイアントキリング(圧倒的格上のチームに格下のチームが勝つこと)を起こした。
試合前半はほとんどドイツに圧倒され、PKを許し1点を先制された。しかし、後半に入ると見違えるような攻撃的なチームへと変貌した。守備のシステムを3バックにして三笘薫選手や遠藤航選手など各選手が自由に動けるように思い切ったシステムチェンジを敢行したことが功を奏した。
GKの権田修一選手が、後半25分にドイツのシュートを立て続けに止めるビックセーブを見せた。後半30分に堂安律選手がGKのこぼれ球を押し込んで同点に追いついた。その8分後、セットプレーから抜け出した浅野拓磨選手が値千金の逆転ゴールを決め、そのままドイツの猛攻をしのいで大金星を挙げた。
日本サッカー界にとってドイツは、大恩人ともいうべき存在だ。
62年前の1960年、東京オリンピックを4年後に控え、一人のコーチをドイツ(当時は西ドイツ)から招聘(しょうへい)した。その人物こそ、ドイツ人のデットマール・クラマー氏(1925~2015)だ。
「日本サッカーの父」と呼ばれているクラマー氏の功績は、最先端のトレーニング法の導入、全国リーグの提案、コーチの育成など、今に続くコーチや選手たちの育成システムの礎を築いたことにある。
1964年の東京オリンピックで日本はベスト8に進出。68年のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得した。
日本のサッカーのレベルアップを図れたのは、クラマー氏が掲げた五つの提言によるものが大きい。
①国際試合の経験を積む②高校から日本代表まで2人のコーチを置く③コーチ制度の導入④リーグ戦の開催⑤芝生のグラウンドを数多く造る。
この五つの提言は、今も受け継がれている。特に四つ目のリーグ戦の開催は、紆余(うよ)曲折を経ながら93年にプロリーグであるJリーグが誕生したことで、クラマー氏の遺志を現在に伝えている。
今回のW杯で、2-1で日本が勝ったドイツ戦をもしクラマー氏が見ていたらと思うと感慨深いものがある。ただ、その一方で、「まだまだ」という声も聞こえてきそうだ。
ある意味、この勝利は日本サッカー界が大きく成長し、次の段階へと引き上げた一戦だったのではないだろうか。恩あるドイツに勝利することで恩返しをしたとも言える。
だが、ここで日本は止まってはいけない。
「良い準備がなければ、良い試合はできない」
「サッカーの上達に近道はない。不断の努力だけである」
クラマー氏が遺(のこ)した言葉が天から聞こえてきそうだ。
次戦は、ベスト8を狙う日本にとって重要な試合となるコスタリカ戦(27日)。さらにドイツよりもランキングが上のスペイン(12月2日)との一戦も控えている。いずれも気の抜けない戦いばかりだ。
「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」ではないが、ドイツ戦が終わった時点で次の試合は始まっている。
「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛だ」
この勝利をクラマー氏に捧(ささ)げたい。