「W杯」「甲子園」例示
高市改造内閣がスタートした。直後の世論調査(読売)でこれまで少しずつ下降していた内閣支持率が回復を見せており、国民が改造を評価したことが示されている。だが、相変わらずメディアは「高市下げ」のオンパレードだ。新聞は権力を監視・批判するものだとはいえ、これほど世論調査の「客観」とメディアの「主観」がズレているのも不思議な現象である。
このメディアと国民のズレ、というかメディアの〝独り善がり〟は高市早苗首相への評価だけではなさそうだ。週刊新潮(9月24日・10月1日号)に短い記事が載っていた。「『W杯』に『甲子園』大新聞にあふれる『ポエム記事』をどうにかしろ」である。
同誌が例として挙げたのがスポーツ記事。「〈シュートの行方を追った。(中略)跳ね返ったのはゴールの中だった。後半追加タイム、若き守護神の胸に深く刻まれた一瞬だ〉(7月1日付読売新聞)」
これはサッカーのワールドカップ(W杯)で日本がブラジルと対戦して逆転負けした時のもの。続けて「〈23歳のGKが秘める無限の可能性は、まだ見ぬ『最高の景色』を照らす光となる〉」と締めくくる。
GKの鈴木彩艶選手は試合後、「ゴールを割らせてしまったあの瞬間は一生忘れない」とコメントしている。ここから記者は「まだ見ぬ『最高の景色』を照らす光」に結び付けたわけだ。その想像力、いや創作力は客観報道とかの話ではなく、もはや小説としか言いようがない。
問われるアクセス数
次は甲子園。「〈光があたった選手もいたが、不本意な成績に終わった選手も多かった。最後までベンチにいた選手はさらに多い。そして、その全員がチームの一員だった。有明(高校名・編集部注)の野球に人生を見た〉(8月24日付朝日新聞熊本県版)」。同誌は「〝人生を見た〟とは恐れ入るばかりである」と失笑する。
最近の「ポエム化した記事」について同誌は新聞OBに話を聞く。「元朝日新聞政治部デスクの鮫島浩氏」はインターネットの発達や、取材される側が自ら発信できる時代に「新聞の役割や生き残る術が問われている」との認識を示した上で「ポエム記事もどれだけ読まれたかが大切だと思いますが、客観的な物差しがない。私から見ると、どの記事も文章は下手だし分析力もありません」とバッサリ。
「どれだけ読まれたか」とは、ネットに公開された記事の閲覧数のことも指しているのだろう。新聞も自社のサイトで記事を公開し、それを有料化して生き残りを懸けている。なので、記者も自分の記事がどれだけアクセスを稼いだかが問われる。ネットを意識した書き方になるのは避けられないのだ。
これに対し、毎日「開かれた新聞委員会」の委員で「日本大学危機管理学部教授の西田亮介氏」は「3年ほど前に委員会で〝ポエム記事が増えているのではないか?〟と問題提起したところ、毎日側からは〝文体の試行錯誤だ〟と言われました」と呆(あき)れる。ネットで収益を模索する新聞の現状の一端なのだろう。
ファクト流通が使命
しかし、新聞がこれでいいのだろうか。「西田氏によれば、新聞はメディア報道のベースを担う存在」だ。「取材によって裏打ちされたファクトを社会に流通させるのが新聞のはずです。人手もお金も含めたリソースが少なくなっているのに、ポエム記事に労力を割いてどうするのでしょうか」と戒めている。
読者が読まされているのは「取材対象者が喋った内容ではなく、〝この人はこう感じただろう〟と、記者が一人称で創作しているとしか考えられないポエム記事」というわけだ。もはや「報道の役割」とは言えない。
西田氏は「このままポエム記事を増産した挙句、5年後や10年後に新聞がなくなったところで誰も惜しまないでしょう。そもそも既に誰も読んでいないので」と突き放した。
ポエム記事や政権叩(たた)きばかりを繰り返して、新聞が信頼を失い、読まれなくなった挙げ句、第3代米大統領ジェファソンが警告した「新聞のない政府」が到来するのが「5年後や10年後」でないことを祈る。(岩崎 哲)







