
「談話」の原因は朝日
衆院議長や自民党総裁、外相などを歴任した河野洋平氏の訃報が先週、伝えられると朝日、毎日などの左派紙は「ハト派・護憲の精神を体現し、日本の政治・外交に大きな足跡を残した」(朝日12日付社説)、「自民党最後の『護憲ハト派』」(北海道12日付社説)などと「護憲」と「ハト派」をキーワードに一斉に「河野賛歌」を奏でた。
まずは河野氏の〝業績〟とされる「河野談話」を見ておこう。朝日社説は「1993年、宮沢内閣の官房長官として、慰安婦問題に関する『河野談話』を発表。旧日本軍の関与と強制性を認め、『心からお詫(わ)びと反省』を表明した。保守派の反発や批判の的となる一方、和解に向けたアジア外交の基盤をつくり、高市政権を含む歴代政権で継承されてきた」と記す。
では、なぜ「談話」に至ったのか、朝日はその背景について一言も語っていない。忘れてもらっては困る、それは朝日の「世紀の大誤報」から始まったことを。朝日は80年代から「慰安婦=強制=性奴隷」の構図を描き、「吉田証言」(吉田清治氏が韓国・済州島で強制連行したとする詐話=2014年に朝日は虚偽と認め、記事を撤回)を盛んに報じた。これを韓国メディアが格好の「反日材料」として報じた。朝日のマッチポンプで外交問題化したのだ。その収拾策として「河野談話」の発表に至った。
手痛い外交的教訓に
産経の黒田勝弘氏は「河野談話の禍根」と題して13日付コラム「ソウルからヨボセヨ」で次のように指摘している。当時の金泳三政権は談話を高く評価し、今後は外交問題にしないとの見解を明らかにし、韓国紙は「この〝恥ずべき過去〟の扉はもう閉じてはどうだろうか」との社説さえ掲げたが(朝鮮日報1993年8月5日付)、「その後の事態は落着どころか、逆に問題を国際舞台にまで持ち出してふれ回り、官民挙げて『謝罪・反省・補償』を要求し続ける反日ネタとして日韓関係を長年揺さぶった」とし、こう言う。
「河野談話は、日本ではいわゆる〝強制性〟をあいまいなかたちで認めてしまったことなど今も批判が強いが、振り返ればあれは日本が外交的にだまされたのだ。よかれと思ったことが禍根になった。故人にムチ打つより、手痛い外交的教訓として語り続けるべきことだろう」。左派紙は故人を讃(たた)えるより、この外交的教訓を噛(か)みしめるべきだ。
第二に「社会党を抱き込んで政権復帰した。ハト派の河野氏だから実現できた」(毎日12日付社説)という社会党との連立政権(94~96年)についてだ。当時、メディアは「野合政権」と痛烈に批判したが、そのことを左派紙はすっかり忘れている。
自民党総裁だった河野氏は95年、連立政権を維持するために党是だった自主憲法制定を削除する「新綱領」を定めた。保守派の怒りを買ったのは当然だ。おまけに首相に担いだ社会党の村山富市氏は阪神大震災(95年)の発生直後も「寝ていた」。同年に地下鉄サリン事件も発生し「危機管理失格」の烙印(らくいん)を押された。
親中論調に拍車か?
朝日社説は昨年亡くなった村山元首相のお別れの会(今年4月)での河野氏の式辞を持ち上げ、「力が幅を利かす国際情勢を『帝国の世に逆戻りしたような感じだ』と憂えた」と書き、「天声人語」は「河野氏は盟友に『あなたがたどった平和への歩みを、私たちが受け継いでいく』と誓った。村山氏が逝き、河野氏も逝った。『帝国の世』に逆戻りしたような時代に、どう平和への歩みを受け継いでいけるか。私たちの番だ」(12日付)と〝決意表明〟している。
河野氏は筋金入りの親中派だった。「帝国の世」の帝国に超軍拡を続け、「力による正義」を誇示する共産中国が含まれているのか、怪しい。それが「ハト派・護憲の精神」で「私たちの番」なら、朝日の親中論調に拍車が掛かるか。それにしても「河野」「村山」に今なおすがる左派紙の「時代錯誤」は尋常ではない。
(増 記代司)






