
本気で暴徒化想定か
最近、国会周辺などでデモが増えた。先の総選挙での「高市圧勝」後、国会で影の薄くなった共産党や社民党などの左翼政党が支持者を動員し、「改憲反対」デモで気勢を上げている。デモとは「特定の意思や主張を持った人が集まり、集団でその意思や主張をほかに示す行為」で、むろん憲法で保障されている表現の自由の一つだから、法に則(のっと)って行われている限り、とやかく言う筋合いはない。
朝日は2日付に「戦争反対の声 『デモできる社会』の意義」と題する社説を掲げ、「戦争が嫌だ。怖い。そう声を上げる人々が街頭に集まり始めた。一方でそうした声を塞ごうとする風潮も広がる。だが意思を表明する自由は、主権者が手放してはならない民主主義の基盤だ。失ってから気づくのでは、遅すぎる」と、あたかもデモが将来、できなくなるかのように書く。
朝日が妄想でなく、本気でデモができなくなる事態を想定しているなら、それは怖い。何が怖いかと言うと、禁止されるほどのデモは「暴徒化」しかあり得ないからだ。その典型が1960年の「安保闘争」だ。当時、東京都内で行われた学生運動のデモが公安条例違反とされ、裁判になったことがある。デモ側は同条例を表現の自由を侵害し違憲だと主張した。これに対し最高裁は合憲判決を下した。
判決は「集団行動による思想等の表現は、単なる言論、出版等によるものとはことなって、現存する多数人の集団的自体の力、つまり潜在する一種の物理的力によって支持されていることを特徴とする」とし、「平穏静粛な集団であっても、時に興奮、激昂の渦中に巻きこまれ、甚だしい場合には一瞬にして暴徒と化し、勢いの赴くところ実力によって法と秩序を蹂躙」する可能性があると指摘し、それで秩序維持を目的とする公安条例を合憲とした(60年7月20日=『憲法判例集』有斐閣新書、参照)。
まさか朝日はデモの「暴徒化」を想定して、「デモできる社会」の意義を説いたのか。意義を言うなら「法と秩序」に従ってデモをやろうとでも言えばよいものを、なぜそんな持って回った言い方をするのか。何とも怪しい。
主催者は「市民団体」
朝日は社説を掲載する2日前の3月31日付社会面トップに「こんな世界に、いま声上げたい 国会前で改憲反対デモ、参加者の思い」との見出しでデモを取り上げ、「参加者は『NO WAR』などと書かれたプラカードを持ち、シュプレヒコールが始まると、『改憲反対!』と一斉に声をあげ、ペンライトを振った」などと書いている。ところが、記事は主催者について「市民団体」とぼやかす。言ってみれば「主語」がないのだ。こんな“欠陥記事”は、まともな新聞だったらデスクに突き返されるだろう。
デモの正体は日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」を見れば、一目瞭然だ。デモの名称は「平和憲法を守るための緊急アクション」で、主催は「WE WANT OUR FUTURE」(WWOF)と「憲法9条を壊すな!実行委員会」(同紙ネット4月9日付)。前者は若者を取り込む共産党系フロント組織、後者はバリバリの護憲活動家集団だ。
巧妙な「共産党隠し」
朝日が団体名を明記してデモ応援社説を掲げれば、「やっぱり朝日は」と言われるに違いない。それを避け「市民が立ち上がった」というナラティブ(物語)を作り上げるために、わざと団体名をぼやかしたのか。記者は本社からそう“注文”されたのか、それとも“忖度(そんたく)”したのか。巧妙な「共産党隠し」である。
沖縄県名護市の辺野古沖で女子高校生が亡くなった抗議船転覆事故もそうだ。船舶を運用する団体名を「ヘリ基地反対協議会」と書いたのは事故から実に4日後。共産党が同協議会の構成団体であることは今なお、記事にしない。暴力革命路線を隠し持つ共産党系デモの「意義」を説くなら、やっぱり怖いと言うほかないのである。
(増 記代司)





