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外国人の「社会統合」 基本的人権への配慮は?【論壇時評】

 曲折を経て船出した高市早苗内閣が外国人政策担当相を新設した。外国人との共生が政治課題として急浮上したのは、3カ月前の参院選挙で「日本人ファースト」を掲げた新興政党の参政党が躍進したからだ。異なる生活文化・行動様式を持つ外国人の増加に対する国民の懸念に、既存政党が目を向けざるを得なくなったのだ。

 高市内閣発足以前に編集された論壇誌11月号でも外国人政策に焦点を当てた論考が目立つ。見出しに「参政党」「日本人ファースト」といった言葉が並び、同党躍進の余韻も感じる。外国人よりも日本人の幸せを優先するべきではないか、との同党の問題提起に、一部では「極右」「排外主義」「ポピュリズム」のレッテル貼りが行われているが、これまでの外国人政策の失敗と国民の不安に向き合おうとしない偏狭な見方であろう。

 論壇の思想傾向で興味深いのは、右派と左派が共に「移民」を冠した特集を組んでいることだ。例えば、隔月刊の保守思想雑誌「クライテリオン」「この国は『移民』に耐えられるのか?」、左派の月刊誌「世界」「あなたと移民」のタイトルで多くの論考を載せ、座談会も行っている。このタイトルからは、増え続ける外国人労働者は実質「移民」であり、政府は外国人労働者は移民であることを隠してきたとの共通認識がうかがえる。

 思想にこだわらない「文藝春秋」「日本人ファーストと欧米の失敗」と名付けた特集を組んでいる。これとて対症療法的な外国人政策では、移民の増加で国家の統合が難しくなっている欧米の二の舞いになるとの危機意識がにじむ。理想主義からムスリム(イスラム教徒)を中心に大量の移民・難民を受け入れた結果、欧州のリベラリズムが「自死の道」を歩んでいることは、英国人ジャーナリスト、ダグラス・マレーが2017年(邦訳は18年)、その著書「西洋の自死 移民・アイデンティティ・イスラム」で詳細にルポし、欧州社会に衝撃を与えた。

 日本における外国人労働者を実質的な移民だと認めてこなかった失敗については、政府も認めている。

 「文藝春秋」に法務大臣(高市内閣の発足で「前法務大臣」になったが)の鈴木馨祐が「外国人を単に『労働者』と見る従来の外国人受け入れ政策には、とくに『生活者』として見る視点が欠けていました。別の言い方をすれば、『長期間、日本で生活する者』と捉える視点が欠けていたのです……外国人との共存には、『生活者』として地域で真に共生する『社会統合』が不可欠です」と述べている(「法相の提言『外国人政策に日本独自モデルを』」)。「移民」という言葉こそ使っていないが、外国人政策とは外国人との共生、つまり排斥も分断も起こさずに「社会統合」を進めることだと認めているのだ。

 この原稿では、外国人との共生について論壇の動向を手掛かりに考えているが、ここで読者と共有したい数字がある。総務省統計局によると、2025年5月現在、日本の総人口は1億2334万2千人で、1年前に比べ、59万9千人減っている。

 一方で、増加した人口がある。一つは外国人だ。364万9千人で、1年前に比べ34万人増えている。つまり、総人口のうち日本人だけに限った減少数は93万9千人である。

 もう一つ、増えた年齢層がある。「75歳以上」だ。2108万8千人で、1年前比57万2千人の増加だ。日本人の労働人口の減少が深刻なことは、こうした数字を見れば明らかで、外国人政策は人口政策とセットで考えるべきだということが分かる。ここではそのことだけ示しておきたい。

 外国人問題を考える時、大ざっぱに言えば、保守派は日本人のアイデンティティー維持に焦点を当てる。一方、リベラル派は外国人差別、つまり基本的人権の視点から捉える傾向がある。ただ、両方の視点を持って、参政党が掲げた「反グローバルリズム」に一定の警戒心を表明する保守派の言論人もいる。本紙のオピニオン欄「Viewpoint」の執筆者で評論家の三浦小太郎だ。

 「正論」「エリートへの反逆…参政党とは何か」で、三浦は世界を覆う反グローバリズムについて「世界の一元化と文化文明の均質化への批判意識は、実は近代社会の成熟と発展が必然的に生み出したものである」と分析。その上で、「国境を閉ざし、人の移住を最低限にとどめ、各国の文化伝統や、それに基づく社会秩序や生活様式を守りたいというのは自然な感情であり、排外主義だという単純なレッテルを貼って済む問題ではない」と述べている。

 一方、参政党だけでなく欧州の反グローバリズム勢力、米国のトランプ政権も「他国の独裁政権への抗議やその体制下に苦しむ民衆への意識が、私からはあまりにも弱いものに見える」と不満を吐露する。そして「反グローバリズムが、人類が長い歴史の中で共有してきた普遍的な概念である、自由、人権といった価値観への軽視につながり、また、他国の人権問題や独裁体制への批判意識すら弱めてしまってはならないはずだ」と釘(くぎ)を刺すのだ。卓見と言うべきだろう。

 外国人との共生の難しさを示す象徴的な材料がある。ムスリムの土葬だ。日本ではかつて土葬が行われてきたが、明治以降、土地不足や衛生面から、火葬が一般的となっており、近隣で土葬墓地が設置されることに対する住民の拒否感情が強い。これには具体例がある。

 ムスリムが利用する土葬墓地整備は大分県日出町で頓挫。また、宮城県の村井嘉浩知事が土葬可能な墓地整備を検討してきた。しかし、今月9日告示の知事選挙を前に撤回した経緯がある。知事選挙は26日投開票されるが、村井知事が示した土葬墓地容認姿勢が有権者の投票行動にどのように影響するのか、注目される。

 九州大学教授の施光恒は「最近、日本でも『土葬問題』が議論になっていますが、イスラム教徒には『郷に入っては郷に従え』という発想があまりないようですね」と述べているが(「WiLL」「日本の主人公は日本人だ!」)、それはムスリムにとって土葬は神との契約だからだろう。日本は火葬が一般的だと言って火葬を強いられることは「神との契約を破れ」「信仰を捨てろ」と言われるに等しいから、ムスリムにとってはあり得ない話だ。「郷に入りては郷に従え」の日本人にはそれが理解できないのである。

 「信教の自由」は「人権の中の人権」と言われる。政府は昨年4月、「特定技能制度」で受け入れる外国人労働者を、24年度からの5年間で82万人に増やす方針を決めた。彼らを単なる労働者としてではなく、日本で長期間生活する人間として受け入れるとすれば、それは信仰を含めて受け入れることではないのか。

 そう考えると、外国人の「社会的統合」は土葬を含めて進めざるを得ないだろう。もちろん、土葬墓地の整備は地域住民の理解を得ての話だが、基本的人権の観点からは「日本が欲するのはあなたの労働力であって信仰ではありません」とは言えないのである。

 従って、地域住民の理解を得つつ土葬を可能にする唯一現実的な道は、政府が外国人の受け入れを最低限にコントロールするしかないというのが筆者の考えだ。日本は土地が狭い、衛生上の問題があるという主張は理解できるが、広大な原野にソーラーパネルが並ぶ光景を目にすると、首をひねってしまうのだ。

(敬称略)

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