軍刀よりも強い新聞
8月の新聞の「戦後80年モノ」(戦争に関する企画記事)には新聞自身が戦争をどう報じ、どんな論調を張ってきたのか、その検証が皆無に等しかった。これは新聞の怠慢と言うほかない。戦争の責任は「軍刀と新聞」としばしば指摘されてきたからだ。ところが新聞は「軍刀」ばかりを俎上(そじょう)に載せ、自らについてはまるで隠蔽(いんぺい)の体である。当時の新聞はどうだったのか、幾つか紹介しておきたい。
「軍刀と新聞」について歴史学者の鳥海靖氏(東京大学名誉教授)はこう述べている。「(1931年の満州事変以降の戦争は)多くの新聞が軍部の行動を積極的にバックアップすることを通じて推進された」(『日本におけるジャーナリズムの特質』研究社)。近代歴史学者の筒井清忠氏は、満州事変当時、「マスメディアのほうが(軍より)強かったことを示す資料はいくつもある」と明言している(『戦前日本のポピュリズム』中公新書)。軍刀よりも新聞が強かったのだ。
筒井氏によれば、満州事変を強力に後押ししたのは朝日で、事変勃発(同年9月18日)4カ月後の翌年1月25日に「東西朝日満州事変新聞展」を催し自社の事変報道を誇らしげに掲げた。「社説」54回、現地電3785通(中国16カ所で60人の特派員が打電)、号外131回発行し、「自衛権の行使」(「大阪朝日」31年9月29日付社説)などと唱えた。
時の若槻礼次郎内閣は事件不拡大と外交交渉による解決を目指し、関東軍の独走を抑えようとしたが、朝日は関東軍を支持し、毎日は「われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望する」(同年10月1日付社説)と朝日に負けじと激しい論陣を張った。
開き直る毎日コラム
33年2月に国際連盟総会で満州事変を日本の自衛行動と認めないリットン報告書が可決されると、これを不服とする松岡洋右代表は議場から劇的に退場したが、連盟脱退に追い込まれた外交的大失敗と捉え、政界引退まで考えた。ところが、朝日は「松岡代表鉄火の熱弁、勧告書を徹底的に爆撃 連盟に最後反省を促す」(同年2月25日付)と礼賛(らいさん)し英雄に祭り上げた。これには松岡自身が「驚いたり自分の耳を疑ったりした」という(随員の土橋勇逸陸軍中佐の話=『毎日新聞百年史』)。日中戦争では南京占拠に熱狂し、日独伊三国同盟締結を「歴史的必然」と称(たた)え、戦争に至らしめた。朝日は戦争屋に化していたのである。
毎日の伊藤智永・専門編集委員は今年8月30日付コラム欄で「戦争反対はなぜ敗れたか」と題し、「日本の新聞は戦争とともに大きくなった。売れるからだ。戦争に反対すると売れなくなる。新聞も商品である。経営が成り立たなければ、言論の独立はない」と、開き直ったかのように“弁明”している。戦争で血を流させ、それで自ら生き延びようとするのはまるで「吸血鬼」だ。
社説アーカイブ必要
朝日は8月19日付オピニオン面に「『声』アーカイブ特集」を掲載し、1945年の投書の幾つかを再録しているが、朝日には社説アーカイブこそ必要だ。それを紹介しよう。
敗戦前年の44年11月9日付社説「決戦へ国民総力を結集」=レイテ島の決戦に捧げ、太平洋の追撃戦に転ぜんことは国民一億の念願とする所であって、むしろ政府の決戦施策の遅きをこそ、恨むの観がある。政府は宜しく国民のこの気魄に信頼し、国民の総力を一刻も速やかに決戦へ結集すべきである。
45年5月15日付社説「沖縄決戦に総進撃せん」=沖縄決戦は全世界の注視するところ、況んやわれら一億国民に於いてをや。全身全霊をもって凝視し、祈念し、挺身をもって特攻を辞せざるの覚悟である。…一億特攻とは、個人々々がバラバラにて戦ふことではない。一億総力が纒まりたる近代戦力として、怒濤の如く体当たりして、来寇敵軍を叩きのめし、撃ち払うことにある。
もはや朝日は軍に成り代わって国民を戦争へと駆り立てている。新聞の大罪である。
(増 記代司)






