新聞自身の総括皆無
「8月ジャーナリズム」の盛りである。先の大戦に関する新聞記事は8月から紙面に溢(あふ)れ、6日の「広島原爆の日」、9日の「長崎原爆の日」を経て15日の「終戦の日」でピークを迎える。今年は「戦後80年」の節目の年とあって年初から「総括モノ」が紙面を飾ってきたが、何とも物足りない。肝心の新聞自身の「総括」が載っていないからだ。
産経について言えば、創刊90周年に当たる2年前に「産経はこう『主張』してきた」と題する企画記事を掲載している(2023年1月7日付~同12月30日付=全26回)。1945年8月17日付の「英霊に詫(わ)びる」と題する社説から始まり、「朝鮮戦争」「主権回復」「日米安保条約改定」「東京五輪初開催」「日中国交正常化」「昭和天皇崩御」「東西冷戦終結」「拉致事件」等、時代の節目となった出来事にどう向き合ったか、「民主主義と自由のためにたたかう」(産経信条)一端が知れた。
朝日にこそ、こういう企画記事がほしい。何せ戦後の「言論空間」を支配した「天下の朝日」である。どんな論調を掲げてきたのか、産経の前記項目について堂々と披歴すべきではないか。他人の80年を論じる前に隗(かい)より始めよ、である。
保身に狂奔した朝日
だが、その“勇気”が果たして朝日にあるだろうか。というのは「戦後日本は朝日新聞の主張と逆のことをして成功してきた」(国際政治学者、故・高坂正堯(こうさかまさたか)氏=『歴史としての二十世紀』新潮選書)と揶揄(やゆ)されるほどミスリードを重ねてきたからだ。本欄では終戦直後の例を挙げてみる。
産経は英霊に詫びたが、朝日は保身に狂奔した。45年10月24日付社説「新聞の戦争責任清算」は「近衛新体制運動以後、政府と一々歩調を共にするのやむなきに至り、大戦直接の原因の一をなす三国同盟の成立に際してすら、一言の批判、一瞥(いちべつ)の反撃をも試み得なかった事実は、固(もと)より承諾必護の精神に基づくものであったとはいへ、顧みて忸怩(じくじ)たるものがあり、痛恨正に骨に徹するものありといっても過言ではない」と戦前の自らの論調を言い訳した。
が、よくも「やむなき」などと言えたものだ。これこそ朝日の「嘘(うそ)」のつき始めと筆者は考える。実際の朝日は政府と軍部の尻を叩(たた)き、国際連盟脱退を唱え(33年2月25日付「松岡代表鉄火の熱弁 勧告書を徹底的に爆撃 連盟に最後反省を促す」)、日中戦争では南京占拠に熱狂し(37年12月18日付夕刊「この万歳・故国に響け威風堂々! 大閲兵式 世紀の絵巻・南京入場」)、日独伊三国同盟締結を「歴史的必然」(40年9月29日付)と称(たた)え、ナチス・ドイツ礼賛(らいさん)記事を書きまくり、戦争に至らしめた。
GHQ追随者に転向
それが連合国軍最高司令部(GHQ)が進駐するや(45年9月)、早々と前記社説をもって自らの言説を覆い隠し、追随者に転じたのである。共産主義が広がってくると、たちどころに赤に染まった。今なお「大東亜戦争」の呼称がGHQ命令で禁止されていると唱え、この呼称を使った自衛隊部隊を批判する始末だ(2024年4月13日付社説「自衛隊の歴史観 戦争の反省 風化を懸念」)。GHQ命令はサンフランシスコ講和条約に伴う日本の主権回復(1952年4月)でとっくに失効しているはずなのに、である。
その講和条約を巡っては日本共産党と歩調を合わせ「全面講和」(共産国を含めた講和=47年8月19日付社説)や「永世中立」(49年4月12日付社説)を主張し、50年3月から翌51年10月までの1年半の間に実に50本の社説を掲げ、米軍を日本から追い出そうと「非武装」を唱え続けた。在日米軍が存在しなければ、50年6月の北朝鮮の南侵に対応できず、朝鮮半島はたちどころに共産化され「次は日本列島の赤化」(金日成)が現実のものとなっただろう。
これはほんの一例だ。朝日の論調を真に受ければ、身(国)の破滅を招く。これこそ戦後80年の尊い教訓だ。
(増 記代司)






