北が南を軍事併合
4月30日、ベトナム戦争が終結してから50年が経(た)つ。当時のベトナム戦争報道は嘘(うそ)だらけで、戦後メディアの「大虚報」の一つに数えられる。ことに朝日は共産主義を押し隠して「民族解放」の幻想を巻き散らした。実態は共産国・北ベトナムによる南ベトナムの軍事併合だった。同報道を振り返っておこう。
朝日は1975年4月30日夕刊1面に「サイゴン政府 無条件降伏」の特大見出しを立て、「解放軍が無血入場 大統領官邸に入る」と報じた。翌5月1日付社説は「長い流血の歴史が、ここに終わりを告げ、ベトナムに平和が立ち返ったことを、心から喜ばずにはおれない」と祝し、「(同戦争は)徹頭徹尾、民族解放の戦争であった」と断じた。
だが、現実は平和なはずのベトナムから100万人を超えるボートピープルが南シナ海に漂った。サイゴンに入場したのは、朝日が描いた「ゴム草履を履いた解放戦線の兵士」ではなく、ソ連製戦車を先頭にした北ベトナム正規軍で、バン・チェン・ズン総参謀長(当時)は「この大勝利は真のマルクス・レー二ン主義政党である、ベトナム労働党の透徹(とうてつ)した指導によりもたらされた」と言明した(回顧録『ホー・チ・ミン作戦』)。翌76年にベトナム労働党はベトナム共産党に改名した。
ベトナム戦争を民族解放闘争と言い張った新聞は「解放軍」の正体を知らなかったのか。毎日のサイゴン特派員だった徳岡孝夫氏はこう述べている。「そんなことは、すべてわれわれが知っていたことなのである。労働党の正体は、…共産党であること、北緯十七度線(注、南北境界線)から南に北ベトナム軍が足を踏み入れない、などというのは、真っ赤なウソであること、現場にいる者は、それをすべて知っていた」(月刊『諸君!』84年11月号)
朝日の特派員も承知
実は朝日の特派員も先刻承知だった。前記30日付夕刊に伴野朗特派員は「(解放勢力が)共産圏から支援を受け、社会主義国北ベトナムと密接な関係にあり、その中核勢力が『共産党』であることは事実」と記している。また、“北のスピーカー”と呼ばれた朝日の井川一久ハノイ特派員は「北の正規軍が南の戦闘を指導しても、ベトナム人にとってはさして異常な事態ではない」と強弁し、「現実に北の正規軍が大量投入されたのは、(南の民族解放戦線が壊滅的打撃を受けた)68年のテト攻勢以降である」とうそぶいている(『朝日ジャーナル』75年7月4日号)。やはり知っていたのである。
外国通信社(UPIやAPなど)は70年頃から「北ベトナム軍と南の解放勢力」とか「共産軍」と表現していたが、日本の通信社は「解放勢力」と“誤訳”し続けた。産経(当時、サンケイ)は71年から「北・解放勢力」「共産勢力」、毎日は72年から「北軍」「北ベトナム・南解放勢力」と表記したが、朝日はそうしなかった。
毎日サイゴン支局長だった古森義久氏は「南での戦闘で『北ベトナム軍』という表現を使わず、ハノイの『南には北の軍隊はいない』というプロパガンダに結果として一番沿った報道をしていたのは、率直に言って朝日新聞」(『諸君!』前掲書)と述べている。朝日は後に「解放勢力を勝利に導いた『陰の主役』は、ソ連製武器だった」(75年7月30日付)とソ連の軍事支援を自慢げに証している。
異議を「反社」と愚弄
こうした報道姿勢に徳岡氏は警鐘を鳴らす。「当時は『解放』を少しでも疑う者は右翼であり、総会屋や暴力団と同様に報じられた。しかし、それを書く勇気がなくて、われわれはどうして大本営発表をそのまま報じた先輩を嗤(わら)えるだろうか」(前掲書)
ベトナム戦争報道にはそんな「大虚報」があったのである。それは半世紀前だけの話だろうか。今日も新聞はラベリングをし、それに異議を唱える人々を「反社」などと愚弄(ぐろう)してはいまいか。改めて新聞報道を見詰め直したい。
(増 記代司)