「電撃下野」勧める言論界重鎮
政治的死も“救国の英雄”に
韓国言論界の重鎮、趙甲済(チョ・ガプチェ)氏が尹錫悦大統領に「電撃下野」を勧めている。尹大統領の戒厳発令はどう見ても憲法違反だし、「不正選挙があった」として選挙管理委員会に軍を向けたのも権限のないものだった。憲法裁判所での尹氏の主張も「陰謀論」に影響されたもので、受け入れられるものではないと断じている。
尹大統領が釈放され、保守派が弾劾反対で盛り上がっている時に、保守として知られる趙氏が尹大統領に下野を勧めるというのは意外な感じがするが、趙氏の発言は根拠のあるものだ。「月刊朝鮮」(3月号)がインタビューしている。
憲法裁での審理を見守った趙氏が「最も重要な発言」と指摘したのは「戒厳令の軍隊を選挙管理委員会に送るよう(金龍顕国防相=当時=に)命じたのは自分だ」という尹氏の証言だ。
同誌は「中央選管は政府機関でも司法機関でもなく、国会のような独立した憲法上の機関であるため、戒厳令の軍隊は許可なく立ち入ることはできない」と説明する。趙氏は法律の専門家である尹氏が「そのことを知らなかった」と断じる。痛恨のミスだ。
なぜ選管が独立した機関になっているのかというと、朴正熙(パク・チョンヒ)政権が「4・19革命(1960年)の原因となった3・15不正選挙の再発を避けるため、憲法改正により政府の機能から選挙事務を取り除き、1963年に選挙管理委員会を設立した」からである。
「3・15不正選挙」というのは60年3月に行われた正副大統領を選出するための選挙で、李承晩政権維持のため、与党が「官憲」を動員して大規模な不正を行い、翌月の李承晩が退陣することになる4・19革命の導火線となったものだ。
尹氏が戒厳に踏み切った理由の部分で、野党の執拗(しつよう)な「弾劾乱発」がある。尹氏は憲法裁で「野党は先制弾劾を主張し、戒厳令宣言前に178回も退陣と弾劾を要求した」とし、「およそ文明国の近代史で例を見ない“弾劾乱発”は極めて悪質だった」と野党の数に任せた横暴を批判している。
民主主義は「対話と妥協」が基本である。韓国は2017年大規模で連続した糾弾デモを繰り広げて朴槿恵大統領を退陣に追い込んだ。このことをもってして「韓国の民主主義」と誇るが、そうだろうか。国会で議論すべきところを「場外」に出て、左派マスコミと組んでフェイクニュースを流して民衆を扇動し、怒りに火を付け、労組や教組は全国から大動員して、労働者や10代の生徒までも平日のデモに参加させた。その後に国会で弾劾決議に持ち込んだのがどうして「民主的」と言えるのか。民主的なのは最後の国会での弾劾手続きだけである。
去年4月の選挙で多数を握った野党は、今度は「場外」でなく「院内」で堂々と力を行使した。尹氏は証言で「国会予算案基調演説に行くと、いくら憎んでいても拍手の一つぐらいはしてくれるのが対話と妥協の基本だが、(野党議員らは)議事堂中央ロビーで大統領退陣デモをしながら議場に入らず、半分予算案基調演説をしただけ」と吐露している。
「泣き言」に近いが、こうした細かな嫌がらせが「弾劾連発」の間に差し込まれ、継続して尹氏を追い詰めていったのだ。その結果、警察などの予算案が通らず、尹政権はにっちもさっちもいかなくなっていた。
だから尹氏は「現在の国会を昨年4月の不正選挙で選出された議員に乗っ取られた違法な機関と見なしていた」わけだ。中央選管に戒厳軍を向けた理由である。
趙氏は李承晩の「民主主義は忍耐によってのみ維持できる」という言葉を紹介している。1948年8月15日の政権樹立式で行った「この演説は韓国の保守主義の基準点となるに値する」と評価する。
趙氏は戒厳発令が憲法違反であることは明らかなのだから、後は尹氏がどう退くかに懸かっているという。憲法裁の判断が出る前に「電撃下野」することで、今集まっている保守への支持に勢いを与え、大統領選で与党候補が勝利すれば、その後に「恩赦」が出される可能性も出てくるという。
「電撃下野は政治的に死んでも救国の英雄になる方法」だと趙氏は言う。「英雄」として残るのか、「弾劾で罷免された大統領」として残るのか。「最後まで戦う」と言っている尹氏の耳に趙甲済氏の言葉は届くのだろうか。(岩崎 哲)