トップオピニオンメディアウォッチ世界日報創刊50周年に寄せて 新聞という第四権力を正すのは誰か

世界日報創刊50周年に寄せて 新聞という第四権力を正すのは誰か

地球儀のイメージ(Image by Lucas Wendt from Pixabay)
地球儀のイメージ(Image by Lucas Wendt from Pixabay)

地球に思いを巡らせ

新聞は地球儀である――。50年前、こんなセリフを吐く先輩記者がおられた。その人はミニ地球儀をポケットに入れ、時にそれを握りしめている。世界日報創刊について思いを巡らすと、なぜかこの地球儀が脳裏に浮かんだ。

ジャーナリズムの語源はフランス語の「ジュルナル(日中の)」で、それは昼間のこと、仕事を意味している。その営みを伝えるのでマスコミの媒体機関はジャーナリズムと呼ばれた。サンライズ(日が昇る)、サンセット(日が沈む)。夜を経て1日となる。地球が1回転したのである。それと歩調を合わせ、今日1日の地球に思いを巡らせ新聞を作る。先輩記者にとっては世界日報と地球儀は心情的紐帯(ちゅうたい)で結ばれていたのだろう。

地球を俯瞰(ふかん)する。論説委員長を長年務めた外交評論家の井上茂信氏はそれを「鳥の目」と称されていた。鳥が空から地上を見下ろすように「マクロの視点」で出来事を捉えるのである。政治評論家の竹村健一氏は1980年代にパイプを片手に「だいたいやね、日本の常識は世界の非常識や」の言を売りにされていたが、まさに日本のメディアは「井の中の蛙」で非常識に溢(あふ)れていた。

そこから脱し世界的な視点で物事を捉える。それが井上氏の説く「鳥の目」である。ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を愛読されていた氏は、本当は「神の目」を希求されていたのかもしれない。ペンを走らせる姿は崇高だった。

「輿論」のまま戦争へ

50年前には戦前からのジャーナリストが健在だった。そんな大先輩が少なからず世界日報の創刊に馳(は)せ参じ、若手記者に「清沢洌の『暗黒日記』を読んだかね」と声を掛けておられた。清沢洌とは戦前の外交評論家で、戦中の備忘録として日記を遺(のこ)した。その清沢は「輿論(よろん)」を痛烈に批判したことでも知られる。

日露戦争の講和条約(05年)を巡っては新聞がつくり出した「輿論」によって日比谷焼き討ち事件が発生したが、それに抗して毅然(きぜん)として立つ少数有力者があった。桂太郎首相や小村寿太郎外相らである。ところが、満州事変後の国際連盟脱退(33年)では全ての新聞が松岡洋右全権に喝采を送り、その「輿論」の赴くままに政治指導者が戦争への道をひた走った。

清沢洌は「国家の絶大な難局に面した場合には、暫らく輿論を無視し、国家のために一身を犠牲にするのも国民、殊に指導者の任務」と説き、「輿論を懼(はばか)る政治家」が闊歩(かっぽ)する危険性を激しく指弾した。(「松岡全権に与ふ」33年=『戦前日本のポピュリズム』筒井清忠著より)

立ち向かう新聞必要

なぜ先輩ジャーナリストは清沢洌を世界日報に重ねたのだろうか。それは「輿論」の恐ろしさ、ことに大手新聞とその系列下にあるテレビ各社のメディアスクラム(集団的過熱取材)のごとき「世論」形成がいかに国の針路を誤らせるか、肌身で知っておられるからだろう。清沢洌のように少数であっても「世論に毅然と立ち向かう」新聞が戦後日本に存在しなければならない。それがなければ国の行く末が危うい。そんな思いが世界日報を後押ししてくれたのだろう。最近はとみにそう思うようになった。

大手新聞は当てにならないからである。日本新聞協会や記者クラブという“温室”に漬かり、「大人は喧嘩(けんか)せず」とばかりに他紙批判は控える。ひとたび「世論」なるものが形成されると部数減を恐れて、その「世論」の尻馬に乗る。安倍晋三元首相銃撃後の旧統一教会批判の「世論」形成のプロセスが戦前の「戦争の道」を想起させると言えば、言い過ぎだろうか。少なくとも岸田文雄首相(当時)の保身的な世論迎合の姿は戦前の政治指導者と二重写しとなる。

民主社会では新聞は「第四権力」とされるが、その権力はしばしば過ちを犯す。とすれば、誰がその権力を正すのか。世界日報はその役割も担っていると思うのである。

(増 記代司)

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »