トップオピニオンメディアウォッチ共産主義と決別し戦後の「朝日の天下」を崩した渡辺恒雄氏と読売

共産主義と決別し戦後の「朝日の天下」を崩した渡辺恒雄氏と読売

「未来図」遺し旅立ち

言論界の巨星堕(お)つ―。読売新聞グルーブ代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が亡くなった。折しも今年は創刊150年の記念すべき年で、新たに「新聞社を超える新聞社」を標榜(ひょうぼう)し、「読売行動指針」も定めた。むろん渡辺氏が主導したもので、読売の「未来図」を遺(のこ)しての旅立ちだった。各紙に評伝がある。本欄では筆者の読売・渡辺観を述べてみたい。

第一に、今日の読売の原点は共産主義との決別にある。1945年の終戦直後、社内には共産党員らが正力松太郎社長(当時、69年没)の戦争責任を追及し“人民新聞化”を企てたが、読売は屈せず争議指導者を退職させた。世に言う読売争議だ(~46年)。退職者は日本共産党機関紙「アカハタ」(当時の名称)に移った。後の同党中央委員、広報部長の宮本太郎氏(2008年没)がその一人だ。

渡辺氏自身も共産主義と袂(たもと)を分かった。東大学生時代の1945年12月に共産党に入党、東大細胞(支部)のキャップとなったが、共産党から除名。卒業後の50年に読売に入社。暴力革命路線を採った共産党の現場を取材しテロ組織「山村工作隊」のアジトに潜入、その実態を暴いた。社も渡辺氏も共産主義との決別がその後の方向性を決定付けた。

ここが朝日と全く異なる。朝日は「真実の追求から離れ、陰に陽に、無意識でか意識してかマルクス主義の思考」にくるまり、幹部は中国派(広岡知男元社長)とソ連派(秦正流元専務)で主導権争いを演じ、編集現場では共産党員になることを嘱望する記者が少なからずいた。元朝日記者の長谷川煕氏はそう証言している。(『崩壊 朝日新聞』WAC刊)

憲法改正試案を発表

第二に、読売は新聞の役割を「権力の監視」に留(とど)めず、政策実現に積極的に関わった。その先鞭(せんべん)を付けたのは「中興の祖」の正力氏で、55年に読売紙上で「原子力の平和利用」の一大キャンペーンを張ってエネルギー政策の新境地を開いた。紙面だけでなく衆院議員、初代科学技術庁長官(国務大臣)を務め、政策実現に心を砕いた。渡辺氏には「昭和の猛烈記者から権謀術数の政治側」(御厨貴東大名誉教授=朝日21日付)といった批判があるが、政治側=権謀術数とみるのは早計だろう。

第三に、読売は元来、東京の新聞だったが、朝日的言論を凌駕(りょうが)しようと全国紙化した。正力氏を継いだのは「販売の神様」の務台光雄氏(91年没)で、朝日と毎日の2大全国紙体制に風穴を開け、国内最大部数の新聞に押し上げた。現在、読売部数は618万部で、朝日356万部、毎日162万部を大きく上回り、全国紙のシェア率は45%を占める。(日本ABC協会=2023年7~12月平均)

第四に、政策実現を「提言報道」という形で読売の中心課題の一つに据えた。これは渡辺氏の業績だ。その第1弾は94年の「読売憲法改正試案」で、憲法論議に一石を投じた。以来、さまざまな分野で提言を行い「言論機関として新たな境地を開くとともに、時代の羅針盤としての役割を果たしてきたと自負しています」と読売HPは誇る。

防衛力強化賛成67%

渡辺氏死亡報道の翌21日付読売に米ギャラップ社との日米共同世論調査が掲載されたが、これは氏への餞(はなむけ)になろう。防衛力強化に「賛成」67%(米国では72%)。米国の核戦力が抑止力になっていると「思う」69%で、「思わない」18%を大きく上回った(米国では「思う」75%、「思わない」22%)。ノーベル平和賞の日本被団協への授与発表後(10月11日)、朝日は反核キャンペーンを張ったが、それでも国民の多くは核抑止力を是としている。

朝日20日付の天声人語には「(渡辺氏には)『ぼくは新聞人生の半分以上を朝日への対抗意識で過ごして来た』。そんな言葉が残っている」とある。氏にはさまざまな批判もあるが、戦後言論界の「朝日の天下」を切り崩した功績は高く評価されてしかるべきだと考える。合掌。

(増 記代司)

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