受賞者ない経済学賞
日本でノーベル賞が唯一獲得できていない分野に経済学賞がある。物理学や医学・生理学、化学、文学、平和の部門で多数の受賞があるものの、経済学では皆無である。その要因は、わが国において経済学が比較的新しい学問であったばかりでなく、戦後になってからも一昔前まで大学の経済学の主流がマルクス経済学に牛耳られていたことも起因する。コンピューターを駆使した工学的な金融経済学が導入されてきたのはつい最近のことである。
とはいっても、いわゆる資本主義を牽引(けんいん)する近代経済学とりわけ新自由主義を前提にした新古典派経済学が万能か、というと決してそうではなく、むしろ行き過ぎた資本主義が世界の至る所で歪(ひず)みと争いを生んでいるという事実がある。果たして、資本主義はどこへ向かおうとしているのか。
そんな疑問に対して答えを出すかのように週刊エコノミスト(12月3日号)が特集を組んだ。テーマは「経済学の現在地」。同誌は、「世界が分断や民主主義の危機に陥る中、経済学に何ができるのか」と問う。
そもそも経済学は18世紀後半、英国出身のアダム・スミスが著した「国富論」によってスタートする。以後、後に古典派と呼ばれるアダム・スミスの経済学はリカードやJ・S・ミルに引き継がれていった。その後、19世紀後半から20世紀中期にかけてアダム・スミスの経済学のアンチテーゼとしてケインズ経済学やマルクス経済学が登場するも、それらは1960年代に米国で起こったスタグフレーションや旧ソ連経済の停滞などに対応できずに衰退あるいは消滅し、現在、西側諸国で主流となっているのは新古典派と呼ばれる経済学である。
新古典派経済学とは、19世紀後半にその萌芽(ほうが)を見ることができるが、脚光を浴びていたのが60年代。人や企業は合理的に行動し、満足度や利潤を最大化することを前提に、数式を駆使しながらミクロ的な経済分析を積み上げてマクロの経済現象を分析していく理論。これまでポール・サミュエルソン(70年にノーベル経済学賞)やロバート・ルーカス(95年受賞)、トーマス・サージェント(2011年受賞)など多くの新古典派経済学者がノーベル賞を受賞している。
現実遊離の知的遊戯
ところで、こうした世界の経済学の標準となっている新古典派経済学にエコノミスト誌は異を唱える。同誌は東京大学名誉教授の吉川洋氏を登場させ、次のように論駁(ろんばく)する。「過去50年余りの(主流となった新古典派の)マクロ経済は現実の経済とはかけ離れた知的遊戯に変わってしまったと考えている。残念ながらその傾向はますます強まるばかりだ」と指摘。さらに新古典派の理論の「一番の問題は特定の資産市場には有効かもしれない合理的期待の概念を、労働市場や賃金といったマクロ経済に適用したことだ」と説く。確かに個人投資家や企業の合理的な行動を前提としてそれを是認すれば、企業は利潤追求を第一の目的として行動し、その弊害が生まれてくる。
この点を指摘しているのが、BNPパリバ証券チーフエコノミストの河野龍太郎氏である。「この時(1990年代)、日本では本来、社会保障制度をアップグレードし、働き方にかかわらず非常勤雇用でも事業者が社会保険料を負担する被用者皆保険制に移行すべきだった。…実際にはセーフティネットを持たない非正規雇用を割安な雇用として活用する企業の跋扈(ばっこ)を許すどころか称賛した。恥ずべきことである」と糾弾。
「包摂的な社会」提唱
さらに「現在、人手不足に直面する日本では、AI(人工知能)や移民労働を歓迎する風潮にある。しかし、それを準備なく導入すれば、実質賃金の上昇を阻むだけだ」と訴え、「我々は過去四半世紀怠ってきた社会保障制度のアップグレードを行い、収奪的社会への移行を避ける必要がある。包摂的な社会でなければ成長できない」と説く。
包摂的な社会とは、単なる階級闘争ではなく、社会全体が上昇・成長するような社会、いうなれば社会全体を一人の人間と見做(みな)すような形なのであろう。少なくとも人間の尊厳というものをもう一度捉え直し、社会全体の成長につなげたいものである。
(湯朝 肇)