「傲慢な新聞」が露見
12月も半ばが過ぎると、この1年に書き落としていたことが急に気になりだす。年を越すとすっかり忘れてしまう“健忘症”を恐れるからだ。それで大急ぎで取り上げたいのが朝日の鳴り物入りシリーズ「百年 未来への歴史」の8月3日付「序章・瀬戸際の時代 外交と世論、危うい関係」(1面)「世論とメディアは『共犯か』」(2面)である。
「百年」は昭和元年からの100年で、その歴史の教訓から未来を展望しようという趣旨のようだが、果たして朝日は教訓を正しく知得しているのか。序章は世論とメディアを扱うが、そこには今秋、SNSで痛烈に批判された「傲慢(ごうまん)な新聞」の本性が露見している。
同記事は「政治指導者が自らの存在感を示すため、他国への嫌悪に沸く世論に同調し、時にあおることも古今東西珍しくない」とし、戦前の政治家、松岡洋右と「世論」を俎上(そじょう)に載せる。松岡は1931年の満州事変後、国際連盟総会の首席全権となり33年に連盟脱退を宣言。帰国すると市民から熱狂で迎えられ、40年に外相となると日独伊三国同盟を結び、それが日米開戦への伏線となった。
「こうした松岡の対外強硬姿勢について、後に国際連合難民高等弁務官を務めた緒方貞子氏は『世論の趨勢と軍部の意向とを強く意識したからに他ならない』と指摘している」と記事にある。
その「世論の趨勢(すうせい)」について朝日は「百年前はマスメディアの興隆期だった。ラジオ放送開始。雑誌『キング』創刊。婦人雑誌の普及。メディアは世論にのみ込まれ、あおりもした」と書く。が、どう読んでも合点がいかない。メディアがのみ込まれる「世論」は、勝手に生まれたのか、それとも誰かがつくり出したのか。朝日は黙している。
他人事のように書く
それは知れたことである。新聞がつくり、煽(あお)ったのである。ラジオ放送は25年に始まったが、普及率が10%を超えたのは満州事変後の32年。これに対して新聞、ことに関東大震災後に首都圏で猛烈な拡販を行った朝日と毎日は各250万部(計500万部)。まさに「世論」は朝毎がつくり出した。メディアが世論にのみ込まれたとするなら、それは因果応報、自分の撒(ま)いた種である。それを他人(ひと)事のようにメディアと世論に一線を引く。ずる賢い書きようである。
記事の中で佐藤卓己・上智大教授(メディア史)は「30年代の新聞は戦争ビジネス。好戦的な大衆が読みたいであろう記事を出していた」と指摘し、それを受けて「軍縮を掲げた朝日新聞も不買運動や軍部の圧力に押され、姿勢を転じた。部数は伸びていく。従軍した作家・林芙美子と組み、中国でのルポを大々的に売り出した」と書くが、これまた欺瞞(ぎまん)である。
林芙美子の従軍は38年のことだ。戦争の起点となった満州事変当時、新聞の立場は軍より強かった。近代歴史学者の筒井清忠氏は『戦前日本のポピュリズム』(中公新書)の中で「当時はマスメディアのほうが強かったことを示す資料はいくつもある」と明言している。
事変を強力に後押し
満州事変を強力に後押ししたのは朝日で、事変勃発(31年9月18日)4カ月後の翌年1月25日に「東西朝日満州事変新聞展」を催し自社の事変報道を誇らしげに掲げた。それによれば、「社説」54回、現地電3785通(中国16カ所で60人の特派員が打電)、号外131回発行、代表的な社説には「自衛権の行使」(「大阪朝日」9月29日)、「満州に独立国の生れ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」(高原操=当時、主筆「大阪朝日」10月1日)などとある。(同著)
それを序章は「軍部の圧力に押され、姿勢を転じた」と、主犯が被害者面である。来たる年、朝日は「百年 未来への歴史」の本章をスタートさせるのだろう。そこにどんな仕掛けがあるのか。朝日トリックには騙(だま)されまいぞ。そう念じる師走である。
(増 記代司)