孤独死の悲惨な末路
かつて、「おひとりさま」という言葉が社会を賑(にぎ)わしたことがあった。また「食育」の分野でいえば、「孤食」という言葉がある。読んで字のごとく一人で食事をすることだが、家族がいても一家団欒(だんらん)で食事をするのではなく、食べる時間帯もメニューもみなバラバラな食事のことをいう。半世紀前まで日本の食事の風景は丸い食卓に家族が囲んで取るものだったが、そんな風景は過去のものになってしまったようだ。
そこで東洋経済(11月16日号)は現代人の生き方に焦点を当て、「超・孤独社会~ソロ時代の処世術」をテーマに特集を組んだ。そのリードには「『咳(せき)をしても一人』。部屋に誰もいない孤独を詠んだ尾崎放哉(ほうさい)の俳句は、今誰もが直面する現実となった。単身世帯が4割に上り、身寄りなき人々が増加。孤独による病理とその解決策を追った」と記す。
確かに、日本社会は「独り身社会」といっていい。65歳を超える高齢者が総人口の29%(2022年9月時点)を超え、人口減の地方ほどその割合は高くなっている。それは当然「独り身の老人」の増加につながっていく。
東洋経済は、孤独死の悲惨な末路を幾つか紹介する。一つ目は、猛暑の中での孤独死。特殊清掃員の話として「今年の物価高や光熱費の高騰が影響しているでしょう。エアコンをつけていない。あるいはエアコンが壊れていても修理していない、あるいはそもそもエアコンがない部屋が目立ちました。ゴミがうずたかく積まれていている屋敷や、逆に生活をギリギリまで切り詰めている簡素な物件も。生前に周囲との交流がなく、死後3カ月で発見された物件もありました」という。
このような事例は、札幌でもある。公営住宅の自治会会長をしていた筆者の友人が、一人暮らししている住居者の一人と3カ月ほど連絡が取れないというのである。親戚がどこにいるかも分からず、市の管理公社に掛け合っても合鍵がないことから警察立ち会いの下、業者の鍵専門業者を呼んで玄関をこじ開けて入ってみると亡くなっていたというのである。
社会のいびつな側面
こうした孤独死がなぜ増えているのか、という点について同誌は「孤独死は、私たちの社会のいびつな側面を照らし出すスポットライトのようなものだ」(ノンフィクション作家の菅野久美子)とし、「つながりを断たれ、心身を病み、黒いシミだけを残して消えていく人が増えているにもかかわらず無関心が漂う、この状況が問題なのだ」(同)と説明する。
その点を踏まえ、「ソロ時代の処方箋」として幾つかの事例や提言を取り上げる。そこには、「深刻な孤立状態に陥る前に地域とのつながりを回復させる関係性を取り戻す居場所づくりやソリューション(課題解決のためのシステムの構築・サービス)を整備すること」(井艸(いぐさ)恵美氏)と提言するが、その一方で、老人であれ、子供であれ、「助けて」と声を上げることのできない社会ではなく、「解決できないけれど、解決できる人や場所につなぐことができる。家族機能を社会化する町づくり」(ルポライター・杉山春氏)を提案する。例えば、夜8時になっても「家に帰りたくない」という子供の居場所づくりが必要だという。
伝統的家族観が崩壊
確かに、杉山氏が言うように家族機能を社会化するまちづくりは、現代の孤独社会にとって喫緊の課題かもしれない。しかしながら、家族の本来的意義や役割の捉え方が希薄になっている現在、家族機能を社会化するのは簡単なことではないだろう。
元来、家族とは祖父母、父母、子を構成要員として血縁的な関係性の中で互いに心情関係を育成させ、それを基盤として社会との関係性を築き上げていった。ところが、戦後の極端な個人主義を標榜(ひょうぼう)する民主化教育と高度経済成長が日本の伝統的な家族観を崩壊させてしまったがために、そのツケを負わされているのが現代ということになる。
従って、孤独社会を本質的に解決しようとするならば、今一度、国が家族の本来意義と役割を国民がしっかり意識して取り組む必要がある。そして、それが最善、最短の処方箋であると思われる。(湯朝 肇)