「無宗教」は思い込み
日本人が一番苦手な科目が「宗教」だ。初詣で賽銭(さいせん)を投げて手を合わせ、お盆に墓参りして線香を上げ先祖を供養しても、自分は無宗教だと思っている。吉田松陰は「『自分は無宗教だ』という思い込みこそが日本人の宗教だ」と喝破した。
週刊現代(10月26日、11月2日号)が特集「宗教と日本人」でそうした日本人の宗教心を分析している。
新興宗教が出始めたのが、戦後、経済成長期に、地方から都会に出てきた人たちがよすがとした時期である。創価学会や生長の家、立正佼成会などがそれだ。この時期、労働運動、共産主義・社会主義運動が盛んになり、社会矛盾の解決に向かう青年の心はこうした左翼運動が吸収するか、新興宗教が引き付けていった。
このような思想状況で宗教団体が政治運動に向かっていくのは当然のことだ。神仏を否定する唯物共産主義を克服しようとするのは教理的にも脇道のない真っすぐな方向である。
同誌は最も先鋭な反共活動を展開した旧統一教会(世界平和統一家庭連合)について、「北海道大学教授の櫻井義秀氏」の解説を載せている。曰(いわ)く「旧統一教会は『国際勝共連合』を作り、反共産主義を掲げていた。そこで岸信介元総理ら保守勢力は、左派勢力に対抗するために旧統一教会と協力関係を築きました」と。保守勢力にとって左翼運動が猖獗(しょうけつ)を極める中で「反共」「勝共」を唱えて、それに立ち向かう若者の存在は非常に頼もしいものに映っただろう。彼らを支援しようとするのは“保守勢力”にとって当然の帰結である。
政治面だけから解説
だから、旧統一教会がその共産主義に対して「融和的」になった時、保守勢力との「関係性は弱くなっていた」という同誌の分析は一見、正しい。「融和的」と映ったのは1991年「反共の首魁(しゅかい)」である同教会創始者の文鮮明師が北朝鮮を訪問し、金日成主席(当時)と会談したことである。
櫻井氏は「これまでの反共主義とはなんだったのかと、国際勝共連合は一気にトーンダウンしてしまいました」と述べる。だが、この見方は一面的である。宗教を政治の面からしか捉えていない。旧統一教会が神を下ろしてマルクスを掲げたわけでもなく、勝共連合は相変わらず唯物主義、共産主義を克服する運動を続けていた。ただ、政治の世界からそれが見えなかった、見ようとしなかっただけである。
宗教が政治化する例として、生長の家の「保守的で国家主義的」な一派が中核となって「日本会議」が創設された(1997年)ことを取り上げている。これには「神社本庁などに加えて佛所護念会教団や崇教眞光など、新宗教団体が含まれている」が、「ジャーナリストの藤倉善郎氏」はこれを「興味深い」と言っている。いや、繰り返しになるが、神仏を否定する共産主義と戦うのは“宗教の本能”と言っていい。この点への理解が政治やメディアの世界では足りない。
「宗教好き」変わらず
その一方で、宗教や信仰心と関係なく、神社仏閣を好み、おみくじ、占いに凝り、パワースポットを訪ねる人が増えてきたことを同誌は伝えている。この点について「評論家の真鍋厚氏」は「たしかに旧来の宗教は衰退しています。しかし、何かを信奉したい、大きな物語の中に身を置きたい、という人間の欲望はなくならない。(略)それがいわば『宗教っぽいもの』を生み、宗教の代わりになっていると考えられます」と分析した。
「早稲田大学ビジネススクール教授の入山章栄氏」は「実は企業のありかたが、近年は徐々に『宗教的』になっている」と紹介する。「自己啓発」が流行り、「断捨離が人気を博して」これは「スピリチュアルとも隣接する」と真鍋氏も言う。
「人と人との繋がりが薄れ、孤独な自助努力で生き抜かねばならない令和の時代、日本人は『信心』を見失ったように思えるが、それでも根っこにある『宗教好き』は、変わったようで変わっていないのかもしれない」と記事を結んでいるが、週刊誌の着地点としては及第点と言っていいだろう。(岩崎 哲)