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児童虐待Q&Aの危険性 宗教を「悪」と捉える

曖昧な概念で親の権利侵害も

日本は戦後、軍国主義の根底に「国家神道」があると危険視して、政教分離を徹底させたGHQ(連合国軍総司令部)による宗教政策や、経済優先で動いてきた政治の影響で、国民の宗教心の希薄化が続いてきた。そんな中で、2022年7月の安倍晋三元首相暗殺事件が起きた。

これをきっかけに、日本の社会は、非宗教から反宗教に舵(かじ)を切ったように、論者の目に映る。左翼で無神論者が多いと言われるマスコミ界はもとより、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の解散命令請求が象徴するように、宗教への介入に抑制的だった政治も反宗教姿勢を露(あら)わにしている。

この変化を言い換えれば、人間の営みの中で、宗教心を精神文化の根幹として尊重する立場から、国が積極的に監視し抑制すべき「悪」なるもの、少なくともネガティブなものとして捉える宗教観への転換である。それはすなわち、共産党独裁の中国のような全体主義国家のそれに近づいていると言っても過言ではない。

22年12月27日、厚生労働省が発表した「宗教の信仰等に関係する児童虐待等への対応に関するQ&A」(ガイドライン)も、政府が反宗教に舵を切ったことを示す通達と見て間違いない。このガイドラインの持つ危険性に警鐘を鳴らす論考が月刊「正論」11月号に載った。長崎大学准教授、池谷和子の「信教の自由を脅かす厚生労働省児童虐待ガイドライン」だ。

池谷の論考は、重要な事実の紹介から始まっている。今年4月、厚労省のガイドラインに対して、国連の特別報告者4人が「子供たちが自身の宗教又は信念を表明する権利や、親が自らの信念に合致した子供への宗教的及び道徳的教育をする権利を損なわせる恐れ」があるとして、ヘイトクライム(憎悪犯罪)やヘイトスピーチにつながる「深刻な懸念」を表明したことだ。

この懸念表明には明確な根拠がある。日本も批准する国際規約は、子供に対して宗教教育を行う親の権利を認めている。「児童の権利に関する条約」第14条第1項は「締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する」としながら、その2項では「締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する」としている。

また、国際人権規約の「自由権規約」第18条第4項は「この規約の締約国は父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する」としているのである。日本国憲法もその第20条で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と明記する。

にもかかわらず、安倍氏暗殺事件から半年も経(た)たずに、国際社会から「深刻な懸念」が表明されるようなガイドラインを公表した狙いはどこにあるのだろうか。児童虐待の防止を名目に、旧統一教会を「解散」させ、親から子供への信仰継承を阻止しようとする政府の思惑の一環と推測できるのではないか。

ガイドラインに話を戻すと、「宗教等の信仰に関する事案についても、児童虐待に該当する行為が疑われる場合には迅速に対応することが求められる」と、信仰が動機であっても非宗教的動機と同じに扱えと言っている。そして宗教活動を「体罰により強制する」ことは児童虐待だとして、地方自治体や児童相談所に積極的に対応することを求めている。

たとえ憲法や国際規約が保障する権利であろうと、親による逸脱行為は起きることはあるから、一見すると、ガイドラインは妥当にも思える。しかし池谷は、児童虐待かどうかは、宗教か非宗教かにかかわらず「『親の行動』のみに焦点をあてるべき問題である」、それなのにあえて信仰を持ち出して児童虐待を論じることに「違和感」を覚えるという。その上で、ガイドラインからは「宗教は悪であり要注意だ」という意図が強く伝わってくるとさえ訴えるのである。政府が反宗教に舵を切ったとした論者の考えと重なる捉え方である。

具体的にみると、ガイドラインは「長時間にわたり特定の動きや姿勢を強要する、深夜まで宗教活動等への参加を強制する」ことは「心理的虐待」あるいは「ネグレクト」(育児放棄)になるとしている。この内容について、池谷は分かりやすい例を出して疑問を呈している。

「憲法上、認められている信教の自由に基づき子育てしているにもかかわらず、『夜遅くまで強制的に塾に行かせるのは児童虐待ではない』が『夜遅くまで強制的に教会に行かせるのは児童虐待である』というガイドラインの趣旨は、同じ事柄を同じように扱っているように見えない」

池谷は触れなかったが、性的虐待については「教育と称し、年齢に見合わない性的な表現を含んだ資料を見せる・口頭で伝える」とある。これだと、性的な「罪」についての聖書の物語は引っ掛かる可能性がある。さらには「宗教団体の職員等に対して、自身の性に関する経験等を話すように強制する」とあるが、未成年者の性的な「罪」の告白を聞くカトリック司祭の宗教行為は児童虐待になるのではないか。

その一方、このガイドラインに従えば、一部の小中高校で現在行われて性教育やLGBT教育が性的虐待と見られてもおかしくないが、厚労省や文科省が注意を促したとは聞いたことがない。LGBT理解増進法が施行されて以降、教育現場では「同性愛」をはじめ性的行為を連想させる表現を含んだLGBT教育や、性交やマスターベーションも教える包括的性教育が広がっている。性倫理を説く宗教には厳しく、性解放思想を背景とした性教育には甘くというのでは、不公平どころか、あまりに危険である。

児童虐待を防止するという政府の目標だけを見れば否定すべきものではないが、児童虐待はその概念が曖昧であるが故に対応も難しい。何かを「強制」することをもって虐待だと言っても、その強制の基準さえ定かでない。それなのに、あえて信仰に焦点を当てたガイドラインを作成することは、宗教を動機とした親の子育てを、非宗教を動機とした親の行為よりも危険視していることの証左と言える。

ただ、そうした批判は厚労省も予想していたようで、「(ガイドラインで挙げた)例示を機械的にあてはめるのではなく、児童の状況、保護者の状況、生活環境等に照らし、総合的に判断する必要がある」と解説し逃げを打っている。ところが、そう言いながら「総合的に判断すべきであるため、一つひとつの行為が軽微である場合にも、児童虐待に該当する場合もある」と、対応に当たる担当者の主観的判断で積極介入できる道を残しているのである。なんと狡猾(こうかつ)なことか。

厚労省は前述した「児童の権利に関する条約」第14条第1項についても、子供にも親の宗教を信じない自由があるという部分を強調するのだろう。これに対しても池谷は「〇歳児に思想、良心及び信教の自由があるなどと、児童の権利条約は考えていない」とした上で、「『子供は大人と同じ判断能力を持って生まれてくるのではなく、親からさまざまな教育を受けて発育する存在である』ことが理解できていないガイドラインは、非常に残念である」と、失望を露わにしている。国際社会からの懸念に対して、政府はヘイトクライムを煽(あお)る意図はないと反論したと伝えられるが、それよりもこの危険なガイドラインを撤回すべきだろう。

(敬称略)

(森田 清策)

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