売るためのエセ記事
「流されない 私は読んで 考える」。来月の第77回新聞週間を前に先週、日本新聞協会が発表した代表標語である。約1万編の応募から協会の選者たちが選んだという。ネット情報などに流されず、新聞を読んで考えてほしいと言いたいのかもしれないが、「新聞記事に流されないで、よく考えてほしい」と選者が願っているようにも思えてくる。
ネット情報にしろ、新聞記事にしろ、読者はしばしば「流される」。それがいかに頻繁か。新聞協会も自覚しているのだろう。流されるとは、「その方に傾かされる」ことを言う。つまり世論誘導、世論操作である。これこそ新聞の宿痾(持病)と言ってよい。
日刊新聞が本格的に発刊されるようになったのは約200年前、「本紙は蒸気力で印刷された」と告げたロンドン・タイムズ(1814年)が始まりだ。社会学によれば、ここから「公衆」が誕生した。マスメディアの介在で「注目の枠組み」を共有する人々の群れのことだ。
自由市場にあっては新聞も「売れてなんぼ」の世界である。そこから「売る」ために記事は過熱し、ラベリング(決めつけ)、センセーショナリズム(煽情(せんじょう))、ファブリケーション(でっち上げ)などのエセ記事が登場する。19世紀末の米新聞王ハーストが典型だ。
当時、米国はスペインの植民地キューバの動きを注視していた。ハーストは読者を熱狂させ部数を拡大する思惑から特派員と挿絵画家を送り込み、反乱軍を取材させた。が、活動は不活発。それで特派員は帰国を願う電報を打った。
戦争を「こしらえた」
ところが、ハーストの返電はこうだ。「しばらく滞在されたい。きみは絵をこしらえろ。私は戦争をこしらえる」。挿絵画家に反乱軍の「活躍」を絵にしろと命じたのだ(捏造(ねつぞう)だ)。ハーストはこれをもって世論を煽(あお)り、政府に支援を訴えて戦争(米西戦争=1898年)をこしらえた(ジョイス・ミルトン著『イエロー・キッズ アメリカ大衆新聞の夜明け』文藝春秋刊)。戦争を遂行したのは政府と軍だが、「こしらえた」のは新聞だった。
日本の場合も似たり寄ったりだ。関東大震災(1923年)で在京の新聞社が壊滅的打撃を受けたので、大阪が出自の朝日と毎日がここぞとばかりに首都圏に進出、部数拡大を競い合った。絶好の「拡販材料」が戦争だった。
満州事変(31年)が勃発すると、朝日はすかさず「日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ」(31年9月20日付夕刊)と檄(げき)を飛ばし、現地から社機でニュース・フィルムを運んで、東京・有楽町の本社で上映会を開き、「勇敢なる我軍の行動等手に取る如く展開され、大喝さいを博した」(同9月22日付)と軍を褒めちぎった。
被害者面をする朝日
その上、国際連盟脱退キャンペーンを張り、日独伊三国同盟締結を「歴史的必然」(40年9月29日付)と扇動し、ナチス・ドイツ礼賛記事を書きまくった。東大名誉教授の鳥海靖氏は「(満州事変以後の戦争の歩みは)多くの新聞が軍部の行動を積極的にバックアップする論陣をはることを通じて推進された」(『日本におけるジャーナリズムの特質』)と証言し、医師で作家の佐賀純一氏は「(大戦中の朝日社説は)社説というより、むしろ、死地へおもむく兵士への激励の辞であり、兵学講義であり、同時に、突撃ラッパである」と述べている。(『朝日の「記事」はどこまで信じられるか』日新報道)
それがどうだ。先の終戦の日の8月15日付にゼネラルエディター兼東京本社編集局長の春日芳晃氏は「第2次大戦前、朝日新聞は軍縮を掲げて軍部に批判的でしたが、不買運動や軍部の圧力に押されて戦争礼賛に転向しました。戦時中は、『大本営発表』を伝え続けました」と、しゃあしゃあと被害者面(づら)で書いている。これこそ世論操作が今に続いている証しではないか。だからこそ「流されない 私は読んで 考える」。実にいい標語だ。
(増 記代司)