宗教界から批判の声
日本のメディアは宗教問題が苦手だ。というより、通常、宗教問題については当たり障りのない程度の範囲にとどまり、宗教者の信仰や世界観まで突っ込んで記事にすることはほとんどない。それがパリ五輪開会式でのパフォーマンスで宗教問題がにわかに持ち上がったのだ。
開会式は五輪史上初めて競技場ではなく、選手団はセーヌ川を船で行進し、エッフェル塔前のトロカデロ広場で挙行された。新しいことが好きなマクロン大統領らしい凝った式典だったが、その内容について各方面から批判にさらされた。
五輪開会式でのパフォーマンスについて、トルコのエルドアン大統領は1日、「不道徳な行為に怒りを感じた」とローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇との電話会談で語っている。国際的イベントに対して批判を控えるバチカン教皇庁も3日、正式に開会式のパフォーマンスについて「キリスト者を含む宗教者への侮辱だ」と批判を表明している。また、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は国際社会からの批判の高まりを受け、式典の内容に問題があったことを認め、謝罪した。
特に、ドラッグクイーン(女装パフォーマー)やLGBTQ(性的少数者)らを多数起用した開会式のパフォーマンスに対して宗教界から批判の声が上がった。フランスのローマ・カトリック教会司教会議は「開会式では、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画を基にした『最後の晩餐(ばんさん)』をワンシーンで再現するアーティストたちが登場した。しかし、このシーンは、ドラッグクイーン、ほぼ裸の歌手、その他のパフォーマーによって、トランスジェンダーのパーティーやファッションショーにパロディー化された」と批判している。
殺された神父の命日
大多数のメディアが無視した事実は、パリ五輪大会開会式の日(7月26日)は、8年前、フランス北部のサンテティエンヌ・デュルブレのローマ・カトリック教会のアメル神父(当時85歳)がイスラム過激派テロリストに殺害された命日に当たるという事実だ。2人のテロリストは教会の裏口から侵入すると、礼拝中の神父をひざまずかせ、アラブ語で何かを喋(しゃべ)った後、神父の首を切り、殺害した。
一方、夏季五輪大会の開会式でのパフォーマンスでは首を切り落とされたマリー・アントワネット(フランス王ルイ16世の王妃)が登場する。アメル神父もアントワネットも首を切られているのだ。メディアはその奇妙な一致について何も報じていない。
また、フランスでは風刺週刊誌「シャルリー・エブド」がイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことが発端で、イスラム過激派の襲撃テロが発生し、多数が犠牲となったが、同誌がその後、ムハンマドの風刺画を再度掲載した時、マクロン大統領は「人には冒瀆する自由がある」と擁護したことがあった。
これに対し、トルコのエルドアン大統領は当時、「彼(マクロン大統領)は今、何をしてるのか知っているのだろうか。世界のイスラム教徒を侮辱し、イスラム分離主義として酷評し、イスラム教を迫害している。彼は宗教の自由を理解していない」と指摘した。
「冒瀆」仏では死語に
パリ五輪では、イスラム教ではなく、キリスト教が冒瀆された。日本のメディアは「人は冒瀆(ぼうとく)する自由がある」と暴言を発したマクロン大統領の世界観について何も言及していない。政教分離(ライシテ)を標榜(ひょうぼう)し、人道主義を賛美する傾向の強いフランスでは「冒瀆」という言葉は既に死語となっている。
ムハンマドへの風刺、イエスへの中傷、誹謗(ひぼう)など、世俗化した欧米社会では、宗教者の信仰心を冒瀆する言動が日常茶飯事となってきている。
「表現の自由と寛容という名目で、人間の持つ神聖なものへの信仰心、帰依を踏みにじっている」というエルドアン大統領の批判は正論だ。他宗派の宗教心を冒瀆しない自制は「言論の自由」の制限を意味しないのだ。メディアは宗教的背景や信仰問題についてもう少し突っ込みが必要ではないか。(小川 敏)