
9条と並ぶ金科玉条
東京都知事選の告示を受けて朝日が掲げた21日付社説「首都の未来託す一票に」はこう結んでいる。
「表現の自由に配慮しつつ公正な選挙が守られるように目を光らせる必要がある」
4月の衆院東京15区補選で「表現の自由」を唱えた選挙妨害事件があったばかりだというのに、それにも懲りずに「表現の自由に配慮せよ」とは。少子化問題では結婚や出産を巡って「個人の自由」を枕詞(ことば)にしたが、都知事選では「表現の自由」だ。いずれも9条と並ぶ朝日が金科玉条とする戦後憲法の目玉条項で、これを触れずに社説は書けないとでも言うのだろうか。
が、何とも虚しい。都知事選の「表現の自由」を巡る醜態が目に余るからだ。一部政治団体は告示前から「掲示板ジャック」を唱え、1人の首長を選ぶのに多数の候補者を擁立し、「寄付」すると候補者の枠に自ら作成したポスターを貼る権利を与える商売もどきの“選挙運動”を行い、実際、告示日に同一ポスターが掲示板を埋め尽くす異様な風景が見られた。公選法に規定がないから、これも「自由」なのだそうだ。
そうかと思えば、「女性全裸ポスター」の登場である。こちらは産経が21日付社会面に「『全裸ポスター』表現の自由論争」と題して報じている。それによれば、作成した候補者は「表現の自由を訴えるため」に胸や下半身の一部を隠したほぼ全裸の女性をあしらい、それに「売春合法化」「表現の自由への規制はやめろ。モザイク解禁」といったスローガンを添えていた。
これに対して都選管は、表現の自由を尊重する公選法には抵触していないとの判断で、「選管として勝手にはがすなどの措置はできない」と警視庁に相談。候補者は警視庁の警告を受け、問題のポスターの撤去を進めたとしている。こんな破廉恥なポスターが公職選挙法に抵触しないとは驚きである。
朝日の味気ない記事
では、朝日はこれをどう報じているのか。21日付社会面は「混戦・乱戦、首都決戦 ポスター枠足りず、候補者自ら増設」と平凡な見出し。記事には「性的なポスターを貼った候補者もいた。総務省によると、ポスターは他候補の応援や虚偽の内容、誹謗中傷でない限り、内容は原則自由という。警視庁は同日夜、都迷惑防止条例に抵触するとして、この候補者に対し警告を出した。これを受け、候補者はポスターをはがすことを報道陣に明らかにした」とあるが、何とも味気ない書きようだ。
「性的なポスター」だけでは何のことやらさっぱり分からない。全裸ポスター候補が叫ぶ「表現の自由」について一切論及がない。これが表現の自由への配慮なのか。産経は「表現の自由論争」とするが、ならば朝日は何と言う。社論を聞かせてもらいたい。
ところで、都選管は「表現の自由を尊重する公選法」と言い、総務省は「原則自由」とするが、そうだろうか。そもそも公選法には禁止条項が数多くある。政見放送については「善良な風俗」を害するなどの品位を損なう言動を禁じている(第151条2)。公選法の精神から言えば全裸ポスターも当然、「善良な風俗」を害しており禁止すべきではないのか。それがなぜ自由放免なのか理解しがたい。
政策論議の低調ぶり
新聞も官も「表現の自由」になると、かくも及び腰になるのである。憲法が「一切の表現の自由」(21条)と、ことさら自由を強調するからか。その意味で都知事選の異様な風景は「何でも自由」の戦後体制の“なれの果て”のように思えてならない。
それに加えて政策論議の低調ぶりにも目を覆う。まるで金太郎飴のように「少子化支援」ばかりで、首都直下地震や南海トラフ地震、それに有事といった危機を問うのは産経1紙だけだった。朝日は「首都の未来託す」というが、首都の未来には「緊急事態」が抜け落ちている。これもまた、空想的平和主義の“なれの果て”と言えようか。
(増 記代司)