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ムスリム・新宗教嫌悪 多数派が独善的「理解」で蔑視

旧統一教会「反社」の構図と同じ

わが国の在留外国人数は昨年末現在、約342万人を数える。一昨年末から約11%も増えて過去最高だ。

技能実習に代わる外国からの人材受け入れ制度「育成就労」創設を柱とする改正入管難民法などが今国会で成立した。新制度の主な狙いは深刻な人手不足を踏まえた「人材確保」だから、今後、長期滞在する外国人が増加するのは間違いない。

外国人や少数者を包摂する“多様性社会”の促進は、リベラル・左派が力を入れるアジェンダだ。後者の代表例はいわゆる「LGBTQ」である。

左派の月刊誌「世界」は7月号で特集「日本の中の外国人」を組んでいる。その中では、埼玉県川口市周辺に多く住むクルド人と地域住民との軋轢(あつれき)や「外国人嫌悪」(ゼノフォビア)について焦点を当てたルポルタージュや、育成就労制度を外国人の権利擁護の観点から考察した論考を掲載している。

外国人の人権擁護に力を入れる左派の論壇をウオッチしながら、筆者はかねがね、自らの信仰からLGBTQ運動や同性婚に反対する外国人が増えた場合、左派論壇はどのような変化を見せるのか、と関心を持っていた。月刊誌7月号にその問題意識と重なる論考があった。

月刊「Voice」にイスラーム教思想研究を専門とする松山洋平(東大大学院准教授)が「イスラーム理解と宗教嫌悪」を掲載している。この中で松山はマジョリティー社会が偏った情報でマイノリティーを「理解」したと思い込むことの危険性と、「『理解』を保留して対話すること」の大切さを指摘する。今後、日本人が外国人や宗教的マイノリティーに向き合う機会が増えるに当たり、示唆に富んだ論考になっている。この論考から、特に日本社会において、外国人嫌悪や宗教嫌悪が生まれる構図を考えてみたい。日本では「イスラム教」と呼ぶのが一般的だが、ここでは論考に従い「イスラーム」の表記を使う。

日本では「中東の宗教」として縁遠いと思われがちなイスラームだが、松山によると、日本で暮らすムスリム(イスラーム教徒)の数は現在、推計20万人。当然、日本人ムスリムや永住権を持つ人もいる。これだけのムスリムが日本で暮らしているのだから、学校や冠婚葬祭などで、その存在は可視化されつつある。最近では、イスラームが土葬できる墓地不足がメディアで報じられている。

国内のムスリムが増えるにつれ、イスラームは日本の伝統と相いれないばかりか、時には「破壊」する存在として注目が集まることもあるかもしれない。しかし、松山は逆の構図、つまり日本社会によるムスリムに対する加害を懸念し、この事態は二つの動向に着目して考える必要がある、と指摘する。

外国人嫌悪と宗教嫌悪(宗教フォビア)の二つだ。そして、松山は「イスラームは、外国人嫌悪と宗教嫌悪の交差する位置に存在しており、その二種類のヘイトの結合体として、イスラーム嫌悪(イスラーモフォビア)が日本に表出する可能性」があると述べている。

イスラームが日本人にとっては縁遠いと受け止められてきたことで、これまではムスリムが外国人批判の文脈で言及されることはあっても、宗教批判の文脈で言及されることはなかった。むしろ、イスラーム法の定める適正な方法で処理された食品であることの「ハラール認証」や公共の場における「礼拝室」増加など、その信仰を尊重する傾向が強かった。

だが、松山はムスリムにも影響を与える宗教嫌悪に関しての一つの動向に注目する。それは旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の「反社会性」が注目を集めていることだ。どういうことか。少数派を包摂する社会を考える上で、重要な今日的現象を解説しているので、少し長くなるが論考から引用する。

「無論、旧統一教会の信者による犯罪は法律によって処罰されるべきですが、彼らに対する批判のなかには、信者全体を正常な理性をもつ『われわれ』とは異なる狂信者として他者化したり、日本の破壊を目論む犯罪集団として悪魔化したりする言説も含まれています。そうした言説は、旧統一教会に留まらず、宗教そのものを蔑視するような言葉で語られることも少なくありません」

これは外国人嫌悪が生まれるメカニズムと似ている。一部の外国人による犯罪やマナー違反がSNSなどで喧伝されて、外国人そのものが危険な存在であるかのようなイメージが生まれ、日本から排除せよ、との言説も出てくる。

ムスリムは新宗教を対象とする「宗教批判」の文脈で攻撃されることはなかったと指摘したが、その要因の一つについて松山は次のように分析する。

これまでは外国人嫌悪の感情は、主に「保守・右派」の間にあった。一方、旧統一教会攻撃に見られるような宗教嫌悪の動きは、主に「リベラル・左派」が中心となっている。同教団は強烈な「反共」で知られるから、教団対リベラル・左派の構図が生まれたが、ムスリムに対して、リベラル・左派は外国人として、むしろ「寄り添い、擁護する傾向」にあったのだ。

旧統一教会では、一部の左派ジャーナリストや宗教研究者が、教団の「悪魔化」に大きな役割を果たしている。これらの教団批判者によって「犯罪集団」とする「理解」が社会に広がったため、これに合致する証言は受け入れられるが、そうでない場合は「マインド・コントロールから抜け切れていない」とのレッテル貼りが行われ、証言は除外される。

これはムスリムについても同じことが言え、今は加害は見られないとはいえ、ある研究者は「イスラームは好戦的・排他的な宗教であり、日本の脅威になる」と批判する本を出版している。その言説に反対する研究者や信者が「イスラームは平和を希求する宗教だ」と反論しても、「嘘をついているか、知識がないため」だと否定されてしまうのである。

この“排除”の構図については「今日の日本で、宗教的マイノリティーのことをマジョリティー社会が『理解』するときに、相手の像を独善的に決めつける現象」が起きているという。同じムスリムあるいは旧統一教会の信者といっても、その教理の解釈や信仰には多様性があると考えるべきだが、マジョリティー社会に“強者”による「理解」が広がると、その虚像こそが正しい「理解」だとして、実像を見ようとしなくなるのである。

今は、ムスリムに寄り添う傾向が強いリベラル・左派だが、「ジェンダー間の形式的平等の推進」「同性婚の制度化」は、「イスラーム(またその他の宗教)の伝統的な解釈や実践とは、水と油」だ。だから、今後の状況次第では、日本の伝統と相いれない存在と見る保守陣営だけでなく、リベラル・左派による宗教嫌悪の「矛先がムスリムに向かうことも十分に」あり得る、と松山は危惧する。さらに「昨今の新宗教批判の独善的な姿勢は『宗教の信者』でさえあれば誰であれ、恣意(しい)的に攻撃対象とみなす性格をはらんでいる」と警戒する。

ムスリムではない日本人がムスリムと向き合う時、この「理解のジレンマ」をどう乗り越えればいいのか。「多くの人が距離を感じ、ときに偏見を抱いてしまうイスラームのような対象に向きあうときには、『理解』を保留して対話することが大切」と、松山は訴える。

だが、2022年7月8日正午前、安倍晋三元首相が銃弾に倒れて以降、日本の社会はどうか。強者はますます自らの「理解」を過信し、寛容な社会から遠ざかっているように思えてならない。(敬称略)

(森田 清策)

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