「婚姻の自由」は性倫理の破壊だ
LGBTに関して、わが国でトランスジェンダー以上に深刻な状況にあるのが「同性婚」だ。その法制化を立法府に促す司法判断が出ているからだ。
同性婚は、婚姻の本質は人と人との結び付きという考え方によって正当化されている。逆に言えば、子供を生み育てる男女の関係として考えられてきた、これまでの結婚観を変えてしまうのが同性婚問題の本質である。
同性婚を認めない民法や戸籍法の憲法適合性を争う訴訟が東京、大阪、福岡など全国5地域(東京では2次訴訟も)で起こされている。同性カップルを同性婚やパートナーシップ制度などによって“家族”として保護しない現行制度は「違憲」「違憲状態」が五つで、「合憲」は大阪地裁のみだ。どの地裁判決も、積極的に同性婚の制度化を求めたというのではなく、それも含め、同性カップルを保護する立法措置を促している。
さらに今年3月、札幌高裁が高裁として初めて同性カップルを保護しない現行制度は憲法に「違反」するとの判断を示した。しかも、地裁判決から一歩踏み込み、同性カップルにも「結婚の自由」があるとのメッセージを発している。最高裁が札幌高裁と同じ判断を示すとは限らないが、リベラル化する司法が同性婚の容認姿勢を強めているのは否定し難い事実である。
左派の月刊誌「世界」6月号で、憲法学者の駒村圭吾(慶應義塾大学法学部教授)が札幌高裁判決について「憲法学者、すくなくとも私には、想定外の判決であった」と驚きを持って受け止めたことを吐露した。その上で「今回の判決は、同性愛者も異性愛者も憲法上同じ『婚姻の自由』を共有するとした」(「同性婚訴訟の次のステージへ――札幌高裁判決をいかに受け止めるか」)と解説している。
原告団は、一連の訴訟を「結婚の自由をすべての人に」訴訟と呼んでいる。この文言から、訴訟は同性愛者の権利獲得という次元を超え、性行動を1組の男女に抑制するための婚姻制度を破壊しようと狙うLGBT運動の中心に位置付けられると言えるだろう。
「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する」とある憲法24条1項は結婚の自由を保障するものと解釈される。しかし、そこに「両性」「夫婦」という文言があるから、憲法が結婚の自由を保障するにしてもそれは「1組の男女」に限定されると解釈するのが司法の主流である。このため、駒村も1項の条文が「同性カップルの婚姻を憲法上保障していると言い切るのはかなり難しい」と述べている。
ところが、札幌高裁は憲法の精神は個人の権利の尊重だから、1項の「両性」もその文脈の中で解釈し“当事者”と捉えるべきだとした。しかし、これは無理筋に思えるが、問題はそこにあるのではないとして、駒村は次のように強調する。
「札幌高裁判決の論旨が学界で支配的かどうかということではない。むしろそこに込められていると思われる立法府へのメッセージが重要だ」
異性愛者も同性愛者も憲法上、等しく「婚姻の自由」を共有するのだから、立法府はそこを重視した立法措置を行うべきだと促しているのだ。駒村の論考は左派論壇らしいと言えるが、誰にでも婚姻の自由があると主張するのであれば、年齢制限や近親婚の禁止などの“婚姻障害”の撤廃に行き着くという恐ろしい話になる。すでに海外ではそんな議論が起きている。
駒村は「立法府が、最高裁の確定的判断が出るまで腰を上げようとしないのなら、『唯一の立法機関』『国権の最高機関』としての主体性はどこに行ったのだろうか」と、立法府に行動を促すが、むしろ筆者は、一夫一婦制と国の将来を守るために、立法府は主体性を発揮すべきだ、と奮起を促したい。(敬称略)
(森田 清策)