戒律と差別に洞察必要
キリスト教国と異なる対応を
総合月刊誌「潮」は、宗教法人創価学会系の出版社「潮出版」が発行する。創業者は昨年11月に亡くなった創価学会第3代会長、池田大作氏。同誌はカラーグラビアに有名スポーツ選手や芸能人を取り上げるほか、執筆者には寺島実郎、池上彰、田原総一朗各氏をはじめ名の知れた論客を起用するなど、毎回ページをめくると“機関誌”のイメージ払拭(ふっしょく)に努めているのが伝わってくる。
筆者は、鎌田實氏(医師)の連載コラムを興味深く読んでいる。左右のイデオロギー論争とは次元を異にし、「生」や「死」を考えさせる内容が多いからだが、いかんせん、目立つのは創価学会や公明党と強いつながりを示す論考だ。
4月号に論考「性的マイノリティの人権を確立した公明党県議の戦い。」が載っている。書いたのは福岡大学名誉教授の星乃治彦氏。専門はドイツ現代史だが、ゲイ(男性同性愛者)であることを「カムアウト」しているLGBT(性的少数者)当事者である。
当然、LGBT問題にも詳しい。しかし、論考は性的少数者が暮らしやすい社会を構築する仕事に取り組む公明党は「アライの政党」(アライ=味方)である、と宣伝するにとどまっており、学者の論考としては物足りない。これだと、「潮」は公明党や創価学会の機関誌ではなくとも“応援誌”にすぎない、と捉えられてしまうので、もったいない気がした。発行の狙いがもともとそこにあるのかもしれないが……。
それはさておき、星乃氏は、ドイツではナチス時代にゲイが強制収容所に入れられたり、30年前まで男性同性愛を禁止する刑法があったりするなど、当事者たちは迫害を受けてきた、と説明する。こうした事実は、LGBT問題を論じる場合、日本人でも知っておく必要があるだろう。
一方で、日本では歴史上、明治の一時期を除いてゲイに対する迫害はなかった。しかも、戦後民主主義でそれまでの「家」から「個人」重視と男女平等の発想が社会に広がっている。そうなると、LGBTに対する差別はないと思われがちだが、そうではなく「差別や偏見(へんけん)は、今に至るまで根強く」続く、と星乃氏は指摘する。そして、その理由を次のように説明する。
高度経済成長期に「お父さんは外で働き、お母さんは専業主婦、子どもは最低二人」という、家庭の標準モデルが一般化されて「性別ごとの役割分担とジェンダー(性差)像が堅(かた)く確立してしまった」からだと言う。しかし、これでは、ジェンダー研究者などがよく口にするフレーズをそのまま繰り返しているにすぎない。
ドイツをはじめとしたキリスト教国では、聖書の記述から性に厳しい戒律があって、ゲイをはじめとした性的少数者は激しく差別されてきた歴史がある。星乃氏は、日本では迫害はなかったものの差別・偏見は根強く残る、と「差別・偏見」を強調するにとどまっている。筆者はここに違和感を持つ。
LGBT問題を語る時、キリスト教文化圏と、そうでない日本では、性についての宗教的な戒律の違いは無視できないはずだ。前者では刑罰まで与えたが、わが国ではそれを行わなかった。現代においてキリスト教国の代表と言える米国でLGBT運動が生まれたのは、その厳しい戒律の中における、当事者たちの生きづらさがあった。
筆者がワシントン特派員時代(1990年代)、同性愛者らによる権利獲得のためのパレードを取材していた時、中年のゲイ・カップルに「日本人か」と呼び止められ、「日本に旅行したことがある。日本はいいね。差別がないから」と話し掛けられた。
星乃氏が指摘したように差別・偏見は日本でもあるのが事実だろう。しかし、それはキリスト教国家の比ではない。これは重要な点で、日本人の当事者でも「差別を感じない」と語る人は少なくない。なのに、米国で生まれたLGBT運動を手本にした活動が日本で展開されている。差別が法律にまで及んでいる場合、差別解消運動はその法律の撤廃が大きな目標となるのは必然だが、日本ではこのような政治的な解決策とは違った次元の対応があってしかるべきではないか。同氏は差別・偏見を強調することで、政治的な対応を求めているのだ。
論考で、星乃氏が紹介した公明党県議とは、LGBT問題に早くから取り組んできたという公明党の福岡県議会議員のことだ。この県議に限らず、公明党はLGBT理解増進法の早期制定に熱心だった。しかし、同法を成立させたことで、公明党だけでなく岸田文雄政権に対しても保守派から強い反発が起きている。その理由をざっくり言えば、日本は同法を必要とするほど、性的少数者を差別していないというのだ。
この反論について、星乃氏は反発するだろう。そのことは「『自分のようなヘンタイは生きている価値がない』と絶望し、自殺を真剣に考えたこと」もあると述べていることからも分かる。繰り返すが、日本でも差別・偏見は根強いというのである。
だが、筆者が取材して知ったのは、同じ当事者でも「差別撤廃」を前面に押し出し、それに反対する人には「差別主義者」のレッテル貼りするような米国流のLGBT運動に反対する人が少なくないということだ。そのような当事者は理解増進法や「同性婚」にも関心がない。性的少数者であっても、十分に人生を楽しめているのだから、自分たちが「弱者」と決め付けられ、支援を要する人間と見られることには嫌悪すら覚えるというのである。
創価学会の会員の中にも同じように感じている当事者は少なくないのではないか。しかし、保守系論壇を除けば、「潮」に限らずほとんどのメディアは現在のLGBT運動に反対する当事者にインタビューするなりして、その声を伝えることを避けている。これでは、LGBT問題への日本流の対応策は生まれない。そればかりか、米国のように、わが国も社会分断を広げることになろう。
「潮」2月号で、トランスジェンダーの当事者で活動家として知られる遠藤まめた氏が指摘したように、差別をなくすためには「法律だけでは不十分で、人間の心の問題も大きい」(「『LGBTQ差別』のない社会へ、私たちができること。」)。というよりも、心の問題の方が差別の本質的な問題であろう。
そこで、役割を果たすべきは宗教である。差別を解消しようと、政治が人の内心にまで介入することは、息苦しい社会を到来させてしまう。逆に、宗教の戒律を法律で実現しようとしたのがかつてのドイツでありキリスト教国家だったが、日本では宗教を原因とした当事者迫害は起きなかった。この事実は大きい。
だから、創価学会との関連が強い「潮」に求めたいのは、LGBT問題に制度や法律によって対応することの限界や危険性を説く一方、戒律と差別の関連を洞察しながら、差別する側には自身の内面、そして当事者には自身の欲望に向き合う姿勢を促すことを、宗教者に求める論考を掲載することだ。
(森田 清策)