事実を捻じ曲げ石橋湛山の空論を「現実的な手段」と持ち上げる毎日

自民親中派の草分け

鳥の目。高い位置から「俯瞰(ふかん)的に全体を見回して見る」ことをこう譬(たと)える。本紙の論説委員長を長年務めた外交評論家の井上茂信氏は新聞には鳥の目が必要だとしばしば論じていた。新聞は少なからず鳥の目を失い、一つの話題に「焦点化」し世論を煽(あお)りがちだからだ。通常国会が始まった現在、それはもっぱら自民党の派閥問題で、今ほど問われる日本外交はまるで枝葉のようだ。それで改めて鳥の目を思い浮かべた。

今年に入って日本外交を論じる社説や論説はさほど見掛けない中、毎日が16日付に「危機下の日本外交 国際秩序の再生へ行動を」と題する社説を掲げた。どんな行動なのかと読んでみると、鳥の目どころか目が点になってしまった。米国追従リスクが今後高まるから中国との対話が重要だとして石橋湛山元首相が唱えた「日米中ソ平和同盟」を称(たた)えていたからだ。

石橋氏は1956年12月から翌57年2月までのわずか65日間、首相を務め病で退陣した後、後継の岸信介内閣の日米重視策に対抗して共産中国との国交を唱え、60年の日米安保条約改定では国会採択を欠席した自民党親中派の草分けである。それを毎日はこう持ち上げるのだ。

「(首相を)退任後は国益と世界の平和を両立するため『日中米ソ平和同盟』を提案し、各国が共存する以外に『日本の生きる道は見いだし得ない』と訴えた。理想を掲げ、それを実現する現実的な手段をとことんまで探り続けた」

石橋氏は昨年、没後50年、今年は生誕140年とあって、どうやら石橋賛歌を奏でたいらしい。それをもって岸信介氏を貶(おとし)め、安倍晋三路線批判へと繋(つな)げたい。そんな思惑が見え隠れする。それは朝日も同様で有田哲文記者(天声人語の執筆者だった)が昨年12月10日付「日曜に想う」で「対立より功利を 湛山が掲げた旗」と題してこう述べていた。

「(首相退陣後)むしろ一議員に戻ってからが本領を発揮したのかもしれない。『日中米ソ平和同盟』構想を携え、中国やソ連を訪問した。冷戦終結を先取りする行動だった」

対ソ強硬外交の賜物

何が冷戦終結の先取りであるものか。冷戦終結は対ソ強硬のレーガン米外交の賜物(たまもの)で、石橋氏とは無縁である。毎日も朝日も当時の国際情勢を捻(ね)じ曲げている。石橋氏が「日中米ソ平和同盟」を唱えていた頃、いったい中ソで何があったのか。それを書こうと考えていたら、直木賞作家の東山彰良氏が毎日20日付の夕刊連載小説「三毒狩り」(第124回)で見事に描写していた。この小説は中国共産党に殺された親子の物語である。その一節はこうだ。

―(主人公の父が右派として批判されていた一九五七年十一月に)ソ連で開かれた社会主義陣営首脳会議の席上で、毛沢東がフルシチョフの提唱する「西側との平和共存論」を一蹴し、過激な「核戦争論」をぶち上げて各国首脳を震え上がらせた。

「西側と話し合うことなどなにもない! 武力をもってやつらをねじ伏せればよい。核戦争になっても別にかまわんじゃろう。世界には二十七億人おる。たとえその半分が死んでも、あとの半分が残る。じゃが、帝国主義は完全に打倒され、世界がいっぺんで社会主義になるんじゃ。中国の人口は六億じゃが、半分が消えてもなお三億が残る。いったいなにを恐れることがある?」―

せめて目で見て言え

小説はフィクションでも毛沢東のこの熱弁は事実である。そんな時代に石橋氏は毛沢東と手を結ぼうと動き回っていた。「日米中ソ平和同盟」など空論もいいところで、これが「理想を掲げ、それを実現する現実的な手段」であろうはずもない。毎日の社説執筆者は自らの夕刊連載小説をしっかり読んでおくべきだ。事実に目を瞑(つむ)ってイデオロギーを説いても説得力は皆無である。

毎日と朝日には鳥の目とまでは言わぬ。せめて「目で見て口で言え」と申し上げたい。

(増 記代司)

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