治療薬を宣伝する精神科医
医者は科学者の側面を持ち、実証的・論理的な思考をするものだと思っていたが、精神科に限ればどうも違うようだ。月刊「Voice」11月号掲載の精神科医の岩波明(昭和大学付属烏山病院病院長)の論考「発達障害をめぐる誤解」を読んで、そんな思いを強くした。
わが国で、発達障害者支援法が施行されたのは2005年。同法によると、発達障害は「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義される。
これは行政上の定義だが、その認定においては専門の医師でも判断が難しいと言われている。例えば、低年齢で発現するといっても、それが本当に障害なのか、それとも比較的成長の遅い子供に見られるような、未発達に起因するものなのか。それを見分けることの難しさは、素人でも容易に察しがつこう。
診断基準の曖昧さについては、岩波も著書『発達障害』の中で、「発達障害についての大きな問題の一つは、診断の不正確さである」と認めている。「脳機能の障害」と言いながら、脳波検査やMRI(磁気共鳴画像装置)などで検査して客観的に診断するのではなく、医師が問診で主観的に診断するからだ。
それなのに、厚生労働省や文部科学省は早期発見、早期支援が大切だとして、各自治体や関係機関に態勢整備を呼び掛けているが、そこで何が生じるのか。ただ成長が他の子より遅いだけなのに「障害」と診断されたのでは、その子の人生を左右する誤診であり、人権侵害ではないか、と筆者は思ってしまう。
だからといって、発達障害の概念を全否定するつもりはない。他の子と極端に違った行動を取る子に対して、早期から支援が行われ、それによって当事者も保護者も安心できるというメリットはある。それを認めつつ、過剰診断やレッテル貼りにつながるリスクを多分に含んだ概念であることはもっと認識されてしかるべきだと思っているのだ。
岩波の論考は主に注意欠陥・多動性障害(ADHD)について述べている。その判断の難しさについては大人のADHDも例外ではない。岩波は「ADHDは稀(まれ)なものではない」としつつ、「有病率については、最小でも成人の二~三%はADHDと診断されるし、人口の五%以上というデータも見られる」と指摘。また、米国の思春期では「一〇%以上がADHDの治療薬を服用している、という報告も存在している」と付け加える。
「最小でも二~三%」、いや「人口の五%以上」とはなんと曖昧な表現だろう。米国の報告書となると、治療薬を服用するだけで「一〇%以上」だから、薬を服用しない思春期層を含めると、ADHDは実際どれくらい存在するか分からなくなってしまう。
ところが、岩波は「こういった事実は、とくに日本においては一般には知られていないし、医療関係者にも浸透していない」と嘆く。要するに、ADHDは「稀ではない」と言いたいのだろうが、曖昧な数字しかないのに、有病率が高いことがあたかも確定した「事実」であるかのごとくに語るのは、論理的とは言えない。
ちなみに、文科省は2012年、「通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」を行った。それによると、「発達障害の可能性」のある児童生徒は6・5%だった。
昨年も同様の調査を行ったが、しかしその名称は「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査」に変わった。担任教師の主観的判断から出てきた数字を、発達障害のある児童生徒の割合と受け取られることに対する行政の反省がうかがえる。
「発達障害の可能性」という文言は削除されても、マスコミは「発達障害の可能性」のある小中学生は8・8%と報道。数字は一人歩きし、発達障害は「一クラスに3人いる」と言われるようになっている。
岩波の論考ではADHDのうちの「多動・衝動性で頻度の高い症状」として次の四つを挙げている。①落着きがない、そわそわする②一方的なおしゃべりや不用意な発言③感情が高ぶりやすく、いらいらしやすい④衝動買いをし、金銭管理が苦手――だ。
これに当てはまる人間は、筆者の周りに山ほどいる。いや、誰かから「それはお前だ」と言われれば、筆者は「そうかもしれない」とうなずいてしまう。
前出した文科省の調査で、昨年は初めて公立高校の生徒にも調査を行っており、その割合は2・2%だった。岩波は論考で、発達障害は、かつては小児期、思春期の問題と捉えられていたが、最近は「発達障害の特性は生涯にわたって持続することが明らかとなり、成人期における発達障害への支援の必要性が幅広く認識されてきている」と述べている。
とすれば、小中学生で示した8・8%が高校では2・2%に大幅に減ったことはどう見たらいいのか。発達障害の特性は生涯持続するというなら、2・2%だけが本当の発達障害で、大幅に減ったことは、教師の“過剰判断”が表面化したということなのか。高校の2・2%でも、20歳以降ではさらに減る可能性だってある。そこで残った割合だけが、本当の発達障害ではないか、という推測も成り立とう。
さらに、岩波は「成人においては、多動の症状については自分でコントロールしようとするので、明らかな多動の症状は見られないことが多いが、貧乏ゆすりやいつもキョロキョロして落ち着かない様子が多動の名残として見られることがある」と付け加える。こんなことを言われると、ADHDでない人間の方が少ないのではないか、とさえ思えてくる。
症状が重い当事者に対する支援は大切だ。しかし「ADHDの有病率は高く、成人における時点での有病率はすべての精神疾患のなかで最も高いものの一つである」と、ADHDの有病率の高さを強調するに至っては首をかしげてしまう。
岩波はなぜそんなにADHDが多いことを強調したいのか、と疑問を抱きながら論考を読み進めると、最後に答えが待っていた。
「仕事自体に多少のミスや計画性のなさはあるものの、重大な問題は生じていなかった」会社員(女性、30代)の例が出てきた。「明かな不適応は見られていなかったので必ずしも投薬の必要性がなかったが、本人の希望」でADHDの治療薬の一つアトモキセチンを投与したところ、「頭の中が落ち着いて考えがまとまるようになり……順調に仕事はこなせるようになった」というのだ。そして「全般的に、ADHDの治療薬の有効性は高率である」と結論付けている。
岩波はADHDについての理解を深め、当事者であることに気づいてほしい、希望すれば有効性の高い治療薬があるから生活と仕事の質が改善するよ、と受診を呼び掛け、治療薬の宣伝をしたかったのだ、と筆者は納得した。一方、「Voice」を発行するPHPだが、先月発売となった岩波の『職場の発達障害』(「PHP新書」)を宣伝する意図があったにしろ、説得力の乏しい論考を載せたのでは雑誌への評価を下げよう。
(森田 清策)