
相手を萎縮さす応援
この夏、甲子園を沸かせた慶應高校。丸刈り強制なし、自主的練習、「エンジョイ・ベースボール」等々、これまでの汗と泥と猛練習のイメージとは真逆の爽やかな優勝校の登場に注目が集まった。ところがどうもスッキリしない。モヤモヤ感が拭えないのだ。素直に優勝を祝福できない雰囲気が社会にある。
この「違和感」に切り込んだのが週刊新潮(9月7日号)だ。何にそれを感じるかといえば、慶應高側の応援である。守備を乱させるような応援歌の熱唱と大歓声が相手を萎縮させる。決勝相手の仙台育英高からは「そんなことは織り込み済み」というような発言もあったが、それにしても、それほどに慶應高の応援はすごかった。同誌が「まるで北朝鮮の『マスゲーム』のような光景だった」と皮肉るほどだ。
ただし、甲子園での大応援は珍しいことではない。“マスゲーム”もどきも慶應高だけがやっているわけではなく、多くの私立高校は圧倒的な物量と人員を投入して大応援を繰り広げるものだ。
なぜ慶應高の応援だけが問題視されるのだろうか。慶應側から的確な分析が出てきた。「慶應義塾大学名誉教授の池井優氏」は、「大学野球的な応援で、神宮のノリをそのまま甲子園に持ち込んでしまったのは申し訳なく感じています」と述べる。慶應大の応援歌「若き血」「ダッシュKEIO」が繰り返し球場を圧倒した。
だがこれも別に珍しいことではない。早稲田大、日本大などの付属校で大学の応援歌が歌われるのは普通のことだ。「別の要因」として池井教授は、「チーム全体がこれまでの汗と涙の高校野球のイメージと乖離していたことが、反発を招いた面もあると思います」と述べる。「格好良すぎるから反発を招いた」とでも言いたいのだろうか。