有性生物と「婚姻の本質」

「LGBT」男女関係を規範で統制

あり得ない「同性婚」の制度化

同性カップルが結婚できない現行制度は「憲法違反」として、全国5地域の当事者が起こした「同性婚訴訟」の一審判決が先月出そろった。「合憲」としたのは大阪地裁のみで、残りは「違憲」「違憲状態」。同性婚の制度化に反対する立場からすれば、1勝4敗で極めて分が悪い。

いずれも賠償の訴えを退けるなどしたため、すべての地域の原告が控訴し、判決は確定していないが、一審判決を見る限り、裁判官の間に現行の一夫一婦制から舵(かじ)を切り、同性婚の制度化を容認する空気が広がっていることがうかがえる。

そんな司法の動きの中で、埼玉大学名誉教授の長谷川三千子は「結婚といふ制度から<男性と女性の>といふことを取りはらつてしまつたら、はたしてそれは結婚と言へるのかどうか?」と、旧仮名遣いによる論考で問題提起した(「人間であることと生き物であること」「正論」8月号)。「生き物」としての人間の本質に目を向けて同性婚の是非を問うべきだという彼女の論考は、LGBT(性的少数者)の人権や差別解消という観点からだけでしかこの問題を語ることができなくなっているリベラル論壇に一石を投じており、婚姻制度の目的や意義について考える上で参考になる。

地球上の有性生物は、オスとメスの出会いがなければ子供を残せないという宿命を負っている。長谷川は「この厄介な問題」への対処の仕方として、オスがメスを誘う鳥や「オス達が力くらべをしてメスを獲得する」動物のほか、「一種の集団結婚といつた方策をとる生物もゐる」と、多様な形態の例を挙げる。その上で動物と人間の違いを考えると、動物たちは「行動プログラム」によって対処の仕方に違いが出ると理解できる。しかし、同じ有性生物でも人間は、この困難さへの対処の仕方として婚姻制度を設けていると見ることができる。

その婚姻制度について、長谷川は「その形態や細かい取り決めはさまざまであるにしても、いつの時代のどの民族にもなんらかの形で存在してきた慣習・制度である結婚―これこそが、有性生殖といふ困難をのりこえて、われわれ人間の繁殖を支へてくれてきたシステムだと考へられる」と述べている。つまり、種の保存を支えるシステムとして婚姻制度はあるというのだ。

この点については今年5月、同性婚訴訟で違憲判決を下した名古屋地裁の判決文も触れている。まず「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とした憲法24条1項を挙げる。この条文からすれば、同性カップルの婚姻届を受理しないように規定した現行の民法、戸籍法は「憲法違反ではない」とした。

その上で「人類は、男女の結合関係を営み、種の保存を図ってきたところ、婚姻制度は、この関係を規範によつて統制するために生まれた」と指摘する。そして「男女の生活共同体として、その間に生まれた子の保護・育成、分業的共同生活の維持など」の役割を担っていると解説した。妥当な見方と言える。

一方、婚姻制度は、男性における女性支配、あるいは家父長制や資本制の維持のためとするマルクス主義フェミニズムのような考えもある。しかし、一夫多妻など複数ある婚姻制度の中で、わが国が一夫一婦制を採用していることについて、家族法の専門家は男性と女性の関係を一対に安定させることによって、その関係から生まれる可能性のある子の保護・育成を目的にする、との見解を取るのが一般的だ。もちろん、そのためにも当事者同士の愛情関係が基盤となる。

では、名古屋地裁の判決が、なぜ結果的に同性婚を容認するものになったのか。そのカギとして、長谷川が挙げたのは憲法24条2項。「家族」に関する法律は、「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」とする条文だ。現行憲法は家族よりも個人を優先させていることを示す条項と解することができるのである。

24条2項の解説から「判決文はにはかに迷走」を始めると表現した長谷川は、その「責任はこの憲法自体にある」としながら、「まさに『婚姻』といふ、生物としての人間のあり方の根本に即して考へなければならない問題に、近代の発明品である、(意識と意志の主体としての)『個人』などといふ言葉を持ち込んでしまつたから、話は大混乱に陥つてしまふ」とした。そして、判決文を書いた裁判官は「婚姻の本質」を全く心得ていないと断じている。「男女の結合関係」を婚姻制度によって保護し「種の保存を図つてきた」とした24条1項の解説と、明らかな矛盾に陥ったのである。

憲法学者の樋口陽一はその著書『憲法と国家』で、13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と謳(うた)いながら、改めて「個人の尊厳」を強調した24条2項は、「『家族解体』の論理を含意したものとして読むことができるだろう」と指摘している。樋口は、その24条は「同性のあいだの結合をも『家族』とみとめるほどに革命的ではない」と付け加えているが、日本国憲法の施行から76年、家族解体の論理は、裁判官たちが同性婚の容認に傾くという形で現実のものとなりつつある、と言えよう。

同性婚が制度化されたら、最も懸念されるのは学校教育だ。当然、男女カップルだけでなく同性カップルでの結婚も将来の選択の一つだと、教えられることになる。つまり、「性の多様性」教育が本格化するのである。「夫婦」という言葉は差別用語として消えるかもしれない。

まだ思考する力が育っていない段階から、「性の多様性」という考え方を教える(植え付ける)ことは、婚姻制度によって、人間の性関係を男女一対に安定させようとしてきた努力に逆行するもので、非常に危険だが、それを言う言論人は少ない。

長谷川は最後に、先ごろ、国会で成立し施行された「LGBT理解増進法」に触れている。彼女が問題にするのは「理解」の意味。これをマスコミは「気の毒な人々への同情と共感といふ意味」で使っているが、「そんなものは本当の理解ではない」という。

では、本当の意味とはどういうことか。長谷川は「必要なのは、事柄そのものを根本の枠組から理解すること。そしてわれわれ人間は、つねに<人間であること>と<生き物であること>の難しいバランスを取りながら生きてゐる存在なのだと知ること―大切なのはこれだけです」と述べている。

性的少数者への同情と共感の前に、有性生物としての人間が婚姻制度を設ける理由について考えることが必要だ、と訴えたい。

(森田 清策)

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