
社会変革に「有効」の認識広めた
安倍晋三元首相が銃弾に倒れてからもうすぐ1年になる。この間、岸田文雄首相襲撃事件などのテロ事件も起きた。この1年間を冷静に振り返る上で、参考となる特集を組んだ月刊誌がある。「Voice」7月号の「暴力とリベラルの罠」だ。
その中で、日本大学危機管理学部教授、福田充の論考「テロリズムの正義とリベラリズムの自死」は、テロを容認する言論空間の歪(ゆが)みを指摘していて興味深い。福田によれば、「テロリズムとは『正義』のレッテル、ラベリングの奪い合いによる政治闘争」と見なせるという。
「政治闘争において、どちらの側に立つかでテロリズムが犯罪行為とも英雄的行為ともなりうる」と指摘する福田は、現代においては政治的目的の達成だけがテロではないと指摘する。政治的目的性は、検証や線引きが難しいことから重視されず、「その目的や動機に関係なく、暴力を用いて社会に衝撃を与えることで、結果的に社会へ政治的影響を与える暴力行為の全般」という定義が主流だという。
この定義からすれば、山上徹也被告による安倍元首相銃撃は、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対する「社会的制裁」を発生させただけでなく、いわゆる「救済新法」も成立させており、間違いなくテロである。
一方、一部で山上被告を「山神様」と神格化する動きが起きた。このラベリングこそ、福田が指摘する政治闘争としてのテロリズムの特徴なのだろう。
この過程でメディアは「メディアスクラム(集中的過熱報道)」を発生させて、政治と世論に大きな影響を与えた。福田によると、欧米のテロリズム研究ではこの現象を「テロリズムとメディアの共生関係」と呼ばれている。つまり報道によって「テロリズムという暴力行為が、社会変革に有効であるという社会認識が拡大し、一般化されることにより、要人暗殺やテロリズムは繰り返されるようになる」というのだ。まさに、安倍元首相銃撃事件後の1年間、日本で見られた現象そのものではないか。
「リベラリズムの自死」とも言える、一部リベラル勢力の歪んだ言論活動を象徴する“事件”も起きた。安倍元首相銃撃事件についての、法政大学教授(作家)、島田雅彦の“テロ容認発言”だ。ネット番組で「今までなんら一矢報いることができなかったリベラル市民として言えば、せめて暗殺が成功して良かった」と述べて、ひんしゅくを買った問題だ。「軽率だった」と、一応謝罪はしたが、山上被告に共感を覚えたことは認めている。
島田と同じ法政大学教授、河野有理が「Voice」の特集で、次のように述べている。
「『あらゆる暴力は許されない』という建前(たてまえ)的美辞麗句(びじれいく)を掲(かか)げたと思えば、暗殺者へのムード的共感を隠し切れず、それが世間から非難された途端(とたん)、『教室では教えていない』と開き直るようでは噴飯(ふんぱん)ものである」(「『暴君放伐』とリベラルの二つの道」)
河野は名指しするのは避けたが、島田のことだろう。ここまで書くなら、河野は島田の発言を黙認した大学も批判すべきだった。テロリストへの共感を寄せる「リベラルの罠」はメディアだけでなく大学界にも広がっている。(敬称略)
(森田 清策)







