トップオピニオンメディアウォッチ伊藤博文から二・二六事件まで

伊藤博文から二・二六事件まで

日本の首相遭難を列挙

韓国で「大統領は最もリスクの高い職業」と言われるが、その理由は退任後、穏やかな余生を送った人が少ないからである。初代の李(イ)承晩(スンマン)大統領から文(ムン)在寅(ジェイン)大統領まで19代12人の退任後を見ると、亡命が1人、暗殺1人、有罪判決5人、自死1人、親族の逮捕・訴追が2人だ。静かな生活ができたのは崔(チェ)圭夏(ギュハ)大統領と、現在、慶尚南道梁山(ヤンサン)の隠居宅でのんびり登山などしている文在寅氏だけである。

3月の大統領選挙を前後して、日本でこのような韓国消息が紹介されていて、韓国の記者たちも忸怩(じくじ)たる思いがあったのだろうか、安倍晋三元首相銃撃事件を受けて、「日本でも『首相受難史』があるぞ」と記事をアップしたのが月刊朝鮮(サイト版)だ。日本問題に詳しい裴(ペ)振栄(ジニョン)記者が書いている。

わが国で遭難した首相は6人(記事では7人としており誤認か)。1885年に内閣制が導入されて以降、現在の岸田文雄首相(101代)まで全64人、そのうちの人数と見れば少ないだろう。だが、その受難は壮絶である。

まず伊藤博文は1909年、満州ハルピンで安(アン)重根(ジュングン)の凶弾に倒れた。以降、原敬が21年、東京駅で刺殺され、濱口雄幸も30年、東京駅で銃殺された。

犬養毅は五・一五事件(32年)で海軍青年将校らに銃殺される。この時「話せば分かる」と言った犬養に「問答無用」として銃弾を浴びせた。裴記者はこれが「極右疾風怒濤(どとう)の時代を象徴する言葉になった」と紹介し、青年将校らが「愛国者」として扱われ、「裁判に回付されながらも軽い処罰に終わった」と綴(つづ)って、「このような形で蓄積され、歪曲(わいきょく)された革命の熱気は1936年の二・二六クーデターで爆発した」と続けた。

二・二六事件で殺害されたのは高橋是清と斎藤実。高橋は「日露戦争の戦費調達と20年代の金融・財政危機をよく処理した経済通」で、インフレ抑制のための軍備縮小策が軍部の反発を買っての受難だった。斎藤は「天皇を誤らせる奸臣(かんしん)」として殺害された。

疾風怒濤の時代が過ぎ、首相が襲撃されるということはなくなったが、敗戦後、戦犯として処刑されたり、裁きの前に自死した首相らがいる。広田弘毅、東条英機は処刑され、近衛文麿は服毒自殺、小磯国昭は獄中死した。

そして70年間の平穏な時が過ぎて、安倍元首相の遭難があった。裴記者は容疑者を「元海上自衛隊員」と書いている。憲法改正、自衛隊明記に進もうとする日本を牽制(けんせい)しているようにも見える。深読みし過ぎかもしれないが。

(岩崎 哲)

spot_img

人気記事

新着記事

TOP記事(全期間)

Google Translate »