
問われる「核抑止力」
ロシアのウクライナ軍事侵攻でプーチン大統領は核部隊に「特別態勢」への移行を命じ、自由諸国に「核の脅威」を突き付けた。核攻撃をどう思いとどまらせるか、これは人類の死活問題だ。それだけに今ほど「核抑止力」の在り方が問われる時はない。
安倍晋三元首相が「タブーなき核論議」を提起し、ドイツなどが採用する「核シェアリング」(核兵器共有政策)を俎上(そじょう)に載せたのも、そうした危機感からだ。もはや「戦後」は終わった、それも完璧に。そう捉えるべきだろう。
ところが、朝日は意に介せず戦後思考のままだ。2月28日付夕刊「素粒子」は「さっそく、非核三原則を軽んじる安倍元首相。唯一の戦争被爆国の教訓は、どこに」と相変わらず非核三原則にしがみ付き、3月1日付社説では「安倍元首相が不見識極まりない発言をした」「戦争被爆国としての自覚と責務がみじんも感じられない」と安倍批判のトーンを強め、核論議を封印せよと叫んでいる。
そう、反核である。これはいつか来た道ではないか。1980年代に朝日が音頭を取って日本中を騒がせた「反核運動」を思い出させた。
ソ連発の「反核運動」
79年末のソ連のアフガニスタン侵略後、ポーランド(ソ連支配下の共産党政権)で自主管理労組「連帯」が結成され(80年9月)、自由化運動が起こった。これを政府は弾圧し数千人のジャーナリストや活動家を投獄、ポーランド危機が発生した。ソ連は西側の介入を阻止しようと、「核の恫喝(どうかつ)」の挙に出た。
当時、ソ連は西欧全域を射程に入れる戦域核「SS20」を200基近く配備し、核バランスはソ連優位に傾いていた。放置すれば西欧は戦わずして敗北してしまう。そこでレーガン米政権はSS20に対抗する中距離弾道ミサイル「パーシングII」と巡航ミサイルを83年から配備することを決めた。
すると、西側諸国でにわかに配備反対の「反核運動」が巻き起こった。CIA(米中央情報局)が米下院情報委員会に提出したリポート「ソ連の秘密活動およびプロパガンダ」によると(80年2月)、ソ連共産党書記局が西欧各国の共産党に米国製ミサイル配備阻止工作を指示した。
英国の反核運動は「核軍縮のためのキャンペーン」(CND)が展開したが、CND幹部は共産党員で占められていた(英紙「デーリー・メール」81年11月4日付)。デンマークでは反核運動の中心人物だった作家ピーターソンがソ連KGB(国家保安委員会=諜報(ちょうほう)機関)から多額の工作資金を受け取り、当局にスパイとして逮捕された(81年11月)。反核運動はソ連発なのは明白だった。
わが国では日本共産党と朝日が担った。KGB対日工作責任者のコワレンコ・ソ連共産党国際部副部長が80年2月に来日し、テレビ朝日の三浦甲子二専務と懇談、同年12月の再来日では三浦氏に加えて朝日の秦正流専務とも会談した(肩書はいずれも当時)。秦氏は朝日社内で親ソ派として知られていた。
反核記事溢れる紙面
当時、朝日幹部とソ連は「相思相愛の仲」とされ、82年2月には朝日取材団(秦正流団長)が訪ソし、コワレンコ氏と密談している。社外秘「朝日新聞訪ソ取材代表団報告」によれば、コワレンコ氏は秦氏に「朝日新聞が世界の政治の解明に、他の新聞、雑誌より良識ある態度をとっていることをうれしく思う」と賛辞を述べている。それ以降、朝日紙面に反核記事が溢(あふ)れた。82年3月には93本に達し、反核に熱心だった毎日の42件の2倍以上も多かった。
ソ連の「良識」はプーチン氏の「良識」に通ずる。彼もKGB出身で、現在のロシアは彼らが権力を握る「シロビキ政権」だ。朝日がいくら「核廃絶」の奇麗事を並べても、それは自由諸国の核抑止力の足を引っ張り、「核恫喝」のロシアを利するだけだ。やはり今も「相思相愛」なのか、疑念を拭えない。
(増 記代司)