日本人としての品位に欠ける東京の「石原慎太郎氏の差別発言」特集


一つの時代が終わる

石原慎太郎氏が亡くなったのは、2月1日だった。その評伝や回想録など未(いま)だ各紙の紙面をにぎわせている。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」にも似た「死せる慎太郎、生ける記者の筆を走らす」の様相を呈している。

石原氏の訃報は、一つの時代の終結を思わずにはいられない。

それだけ存在感の大きかった人物だったということだろう。少なくともその訃報を聞き、一つの時代が終わったとの感慨を抱く人は少なくないように思う。

石原氏は、占領下で押し付けられた現憲法を自主憲法に変えることができなければ、「我々自身を破滅の隷属に導きかねぬ」と持論の警鐘を鳴らし続けた哲人政治家であり文士でもあった元祖二刀流だ。日本の伝統精神や独立した国家としての矜持(きょうじ)など石原節には、心ある人々が共感する世界もあった。

産経18日付「モンテーニュとの対話」で、文化部の桑原聡氏は東日本大震災の後、石原氏が語った「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」との言葉に共感を示した上で、「石原さんほど肉体を持った言葉を発する政治家はほかにいなかった」と回顧している。

青年期の石原氏の小説に対しては、露骨な風俗描写や倫理観欠如に眉をひそめる文壇の主(ぬし)もいた。だが石原氏の作品は多くがベストセラーとなり、映画化されたものさえある。肉体派作家の異名を持つ石原氏の作品を、大衆は受け入れたのだ。

アジテーター型論評

その点、15日付で東京がほぼ1ページを割いて特集した「石原慎太郎氏の差別発言 いま再び考える」は首をかしげるような企画だ。同紙は「石原氏の差別発言」をテーマに、3人の専門家が検証するという形を取った。

お茶の水女子大名誉教授の戒能民江氏は、「石原氏が二〇〇一年、週刊誌の記事で『女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄』などと述べた『ババア発言』をした際、損害賠償や謝罪広告を求める訴訟の原告に加わった」一人だ。

その戒能氏は「当時、五十代後半の『ババア』と言われる年齢になっていたが、存在を否定されたように感じた」と述べている。

他の2人も似たような情緒的反発を述べている。これは先に結論ありきの手法で、その真意を読み取ろうという基本姿勢が欠落している。

ジャーナリズムには、対象者の業績に是々非々のスタンスを取ることなく、批判を半ば自己目的化した論評に走る傾向がある。

事実や真意と誠実に向き合う基本姿勢が欠落している点では、左派運動家のアジテーターと類似している。アジテーターは敵対者の言葉尻を捉え、自らの運動の肥大化を図る言葉狩りのプロだ。その目線は真実追究の学究派ではなく、憎悪を掻(か)き立て恨みの情念を燃やす素材探しに血眼になっている。

その意味では、東京の「石原氏の差別発言」特集はアジテーター型だ。何より日本人としての品位に欠けている。

日本人の死生観は、「死者に罪なし」「死ねば仏」の世界だ。誰も葬儀の場で、棺桶に向かって罵詈(ばり)雑言を浴びせる無礼者はいない。

感情むき出しの紙面

共産党の志位和夫委員長ですら1日、国会内で記者団に「(石原氏に)心からのお悔やみを申し上げたい」と弔いの言葉を述べた上で、「私たちと立場の違いはもちろんあったわけだが、きょう言うのは控えたい」と語った。無論、志位氏の自制は国民の視線を気にした“恣意(しい)”的なものにすぎない。

その人間として踏み越えてはならない自制すら乏しい東京は、感情の発露をそのまま紙面にぶつけた小学生低学年の壁新聞程度と考えていい。

死者の墓を暴き、その屍(しかばね)に鞭(むち)打つのは中国だけでいい。
(池永達夫)

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